「明治天皇と日露大戦争」の版間の差分

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|撮影=[[渡辺孝]] <small>(シネマスコープ版)</small><br />[[西本正]] <small>(スタンダード版)</small>
|編集=
|美術=[[梶由造]]<br />[[黒沢治安]]
|製作会社=[[新東宝]]
|配給={{Flagicon|JPN}} 新東宝<br />{{Flagicon|USA}} [[MoMA]]
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|製作国={{JPN}}
|言語=[[日本語]]
|作費=2億円
|興行収入=8億円(封切り)
|前作=
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===日本初の「天皇役者」===
嵐寛寿郎は前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んでいた。その姿を見た大蔵は一計を案じ、嵐が撮影所に来る時には[[ハイヤー]]で送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。嵐は後年、この日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している<ref>[[NHK教育テレビジョン]]『映像ファイル [[あの人に会いたい]]』2006年9月17日放送『嵐寛寿郎』内の本人インタビュー(1970年代に収録・放されたもの)より。</ref>。
 
アラカンは日本初のこの大役に、「雲の上のお方で人間臭い演技でけしません、ニッコリ笑うてもあかん、とゆうて能面のように無表情ではアホにしか見えん」と四苦八苦。「もし昭和天皇をそっくり真似したらそれこそ不敬罪、喜劇になってしまいよる、お手本おまへん」、「象徴的にイメエジつくらんならん、これが天皇陛下やと見る人に納得させな主役として落第や、ほんまに苦労しました、この役づくりは」と振り返っている。
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新東宝の上映館は数が少なかったため、[[松竹|松竹映配]]に依頼して上映館を増やしたが、都内では[[新宿オデヲン座]]、池袋・[[文芸座]]、[[目黒ライオン劇場]]といった2流、3流の映画館ばかりでの上映だった。それが映画興行史上の大記録を打ち立てたのである。上映した全ての映画館はすし詰めの超満員となった。客席ぐるりをラッシュアワー並の立ち見客が囲み、中央通路や最前列前の通路まで隙間無く床に座る観客、ロビーにまで人があふれ、上映が始まってもドアが閉められないほどだった。
 
観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が見た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた<ref group="注釈">同記録は、44年後の[[2001年]]、『[[千と千尋の神隠し]]』の2300万人に 1位の座を明け渡した。</ref>。[[配給収入]]5億7千万円は、封切映画の入場料150円の時代の大記録であった<ref group="注釈">興収における同記録は、年々物価が上昇し、入場料金が4倍になった11年後の[[1968年]]、『[[黒部の太陽]]』がその記録を抜いた。</ref>。日本語版のまま封切られた[[台湾]]でも、同地で公開された日本映画<!--邦画-->史上最大の観客動員数を記録している。<!--ただし、その後わずか4年で新東宝が倒産したことから、同社の数年分の利益を一挙に叩き出したかのようなこれらの数字の信憑性には疑問の声もある。{{独自研究範囲|観客動員数に入場料をかけて単純興行収入とすると、その20パーセント未満しか配給収入に計上されていないことになり(通常は40~50%40 - 50%)、松竹映配とのマージン契約、割引など様々な要因で見かけほどの恩恵を新東宝にもたらさなかったことも考え得る。|date=2013年3月}} ←この映画の興行収入で新東宝はそれまでの負債を完済した{{独自研究範囲|まだまだ敗戦の哀しみを引きずっていた時代である。観客は、総天然色・シネスコ大画面いっぱいに映し出された、子供の頃教科書や絵本で見た日露戦争の大パノラマに涙すると同時に、世界の大国に勝利した日本人の誇りと自信を取り戻していった。|date=2013年3月}}-->
 
[[1958年]](昭和33年)[[1月23日]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)で、 ''Emperor Meiji and the Great Russo-Japanese War'' のタイトルで上映された<ref>[[#外部リンク]]欄、[[Internet Movie Database]]の本項リンク先のReleaseの項の記述を参照。二重リンクを省く。</ref>。
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=== 特別興行 ===
[[1971年]]、この年の9月から10月にかけて[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]が行ったヨーロッパ訪問を受け、大蔵映画の主導により「天皇陛下ご訪欧記念特別上映!」と銘打った、ニュープリントによるロードショーが行われた<ref>毎日新聞(東京本社版) 1971年10月18日付夕刊 7頁 「スクリーン情報」 (「明治天皇」で夢再び?)</ref>。</br>
 
都内では、[[上野オークラ劇場|上野OP劇場]](=旧・上野オークラ劇場)<ref group="注釈">既に当時、OPチェーン傘下として成人映画封切に特化していた。当該上映期間の前と後は、当然ながらピンク映画を上映していた。</ref>にて1本立で公開 (11月9日-同月18日) 、北海道では[[札幌大映劇場 (1955年移転開館)|札幌大映劇場]]にて『[[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]]』との2本立で公開された (10月23日-11月2日) 。
 
また2012年7月30日には、明治神宮の「明治天皇百年祭」において、一般向けに敷地内で屋外上映された。
 
== スタッフ ==
* 製作委員長・原案 : [[大蔵貢]]
* 企画 : [[野坂和馬]]
* 原作・総監督 : [[渡辺邦男]]
* 応援監督 : [[毛利正樹]]
* 脚本 : [[館岡謙之助]]
* 撮影 : [[渡辺孝]] <small>シネマスコープ版</small>、[[西本正]] <small>スタンダード版</small>
* 美術 : [[梶由造]]、[[黒沢治安]]
* 照明 : [[佐藤快哉]]
* 録音 : [[鈴木勇]]
* 特殊撮影 : [[上村貞夫]]、[[黒田武一郎]]
* 大道具 : [[山野由蔵]]
* 小道具 : [[吉岡長一郎]]
* 背景 : [[村上練三郎]]
* 音楽 : [[鈴木静一]]
 
== キャスト ==
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*[[北沢典子]] (出征兵士の妹)
*[[花岡菊子]] (出征兵士の母)
 
== スタッフ ==
* 製作委員長・原案 : [[大蔵貢]]
* 企画 : [[野坂和馬]]
* 原作・総監督 : [[渡辺邦男]]
* 応援監督 : [[毛利正樹]]
* 脚本 : [[館岡謙之助]]
* 撮影 : [[渡辺孝]] <small>シネマスコープ版</small>、[[西本正]] <small>スタンダード版</small>
|* 美術= : [[梶由造]]<br />[[黒沢治安]]
* 照明 : [[佐藤快哉]]
* 録音 : [[鈴木勇]]
* 特殊撮影 : [[上村貞夫]]、[[黒田武一郎]]
* 大道具 : [[山野由蔵]]
* 小道具 : [[吉岡長一郎]]
* 背景 : [[村上練三郎]]
* 音楽 : [[鈴木静一]]
 
== 映像ソフト ==
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[[Category:1957年の映画]]
[[Category:日本の戦争映画]]
[[Category:日本の皇室]]
[[Category:日露戦争を題材とした作品]]
[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]]
[[Category:新東宝]]
[[Category:日露戦争を題材とした作品]]
[[Category:日本の皇室関連作品]]
[[Category:明治天皇]]
[[Category:明治時代を舞台とした映画作品]]