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'''ジョセフ・フォン・スタンバーグ'''('''Josef von Sternberg''', [[1894年]][[5月29日]] - [[1969年]][[12月12日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]である。[[ドイツ語]]読みはヨーゼフ・フォン・シュテルンベルク。[[マレーネ・ディートリヒ]]とのコンビで有名。
 
== 来歴・人物 ==
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[[File:Marlene Dietrich in Morocco trailer 3.jpg|thumb|left|200px|『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』のディートリヒ。]][[File:Marlene Dietrich (26).jpg|thumb|left|200px|『[[上海特急]]』のディートリヒ。]]
 
映画は音の出る[[トーキー]]時代を迎え、[[ドイツ]]の大[[プロデューサー]]、[[エーリヒ・ポマー]]は、ドイツ映画界最初のトーキー映画として『[[嘆きの天使]]』(1930)の監督に、ドイツ在住経験のあるスタンバーグに白羽の矢を立てた。世間知らずの真面目な高校教師([[エミール・ヤニングス]])が[[キャバレー]]のダンサーのローラローラ([[レーネ・ディートリヒ]])の色香の虜になり、日参するが、学校を追われ、旅興行の道化役者となり、最後は捨てられた死体が高校の教室に転がる。スタンバーグを代表する傑作で、まさに退廃的な美貌と脚線美の新人の女優ディートリヒと手を携えてハリウッドに戻った。この時期、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー、フリッツ・ラングらドイツからハリウッドに移った監督は数多いが、ほぼアメリカ育ちで、いわばドイツに逆上陸した彼の例は非常に珍しい。
 
パラマウントは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]の[[グレタ・ガルボ]]に対抗すべく、切り札としてディートリヒを売り出した。片道切符で砂漠に流れた酒場女を描いた『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』(1930)はスタンバーグとのコンビの名声を確実にした。その後戦争未亡人がスパイとして銃殺される『[[間諜X27]]』(1931)、動乱の中国に舞台を置いた『[[上海特急]]』(1932)、家庭と愛人との板挟み『[[ブロンド・ヴィナス]]』(1932)、女王の一代記『[[恋のページェント]]』(1934)。それぞれの作品では舞台も役柄も異なるがスタンバーグが独特の映像美の中にディートリヒをいかに引き立たせることに専念していたことは誰の目にも明らかであった。このような監督と女優との結びつきは映画史上例を見なかった。『[[西班牙狂想曲]]』(1935)を最後にスキャンダル化した愛も破れ(彼は別に生涯3回結婚と離婚を繰り返した)、このコンビは解消したのであった。『モロッコ』と『上海特急』で[[アカデミー監督賞]]にノミネートされている。