「虹作戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Konkon 202 (会話) による ID:57901282 の版を取り消し
編集の要約なし
3行目:
#[[1942年]]に行われた[[バレンツ海海戦]]の[[ドイツ]]側の作戦名。
#[[2004年]]に行われた[[イスラエル]]による[[ガザ地区]]掃討作戦の作戦名。
#[[1974年]]に[[日本]]の武闘派[[左翼]][[テロリズム|テロリスト]]グループである[[東アジア反日武装戦線]]が立案した[[昭和天皇]]に対する[[暗殺]]計画。本項にて記す。
----
[[Image:Spot of Emperor Showa assassination attempt by EAAJAF.JPG|thumb|250px|虹作戦の事件現場(東北本線荒川鉄橋)]]
9行目:
== 概要 ==
=== 立案 ===
[[1970年]][[春]]、[[法政大学]]の学生で[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]出身の[[大道寺将司]]らが結成した「Lクラス闘争委員会」は尖鋭化の一途をたどり、極端な[[反日思想]]のもと実力行使も辞さないまでに過激化していった。[[1972年]][[冬]]、東アジア反日武装戦線を名乗る大道寺らは本格的な武装闘争の準備を開始、そのターゲットの中には「幾千万人もの[[アジア]]人民を圧殺した、この大犯罪人を処刑することは、反日思想の当然の帰結である」として[[昭和天皇]]が上がっていた。
 
[[1973年]]頃から、暗殺計画が浮上していたが、具体化し始めるのは翌年[[1974年]]からである。[[犯人]]グループは天皇の行動を調べ、全国各地で多様な公務をこなしながらも毎年[[8月14日]]だけは[[那須御用邸]]から[[皇居]]に[[お召し列車]]で帰還し、翌[[8月15日]]の[[全国戦没者追悼式]]に備えるという行動パターンをつかんだ。彼らはこのお召し列車を天皇もろとも爆破することを決意、爆弾の設置場所は、[[埼玉県]]と[[東京都]]の都県境に架かる[[東北本線]][[荒川橋梁 (東北本線)|荒川橋梁]]([[赤羽駅|赤羽]] - [[川口駅|川口]]間)とした。彼らは[[昭和|昭和時代]]を「'''昭和49年8月14日'''」をもって終わらせる作戦に高揚したという。
 
=== 決行 ===
ちょうどその頃から、「セジット」という爆薬の開発が進められ、8月14日の決行日に合わせるために急ピッチで爆弾が製造された。
 
当初はリモコンによる遠隔操作で鉄橋の[[線路 (鉄道)|線路]]を爆破するつもりだったが技術的問題により挫折し、有線方式での爆破を企てた。迷彩を企図して黒装束に身を包み、殺傷能力を持たせた改造モデルガンとナイフで武装した彼らは、前々日の深夜より三夜にわたって、爆弾を爆発させるための電線の敷設を行い始めた。しかし、翌日(爆破計画前夜)の作業中、私服[[刑事|私服警察官]]とも[[浮浪者]]や[[変質者]]とも考えられる正体不明の第三者が橋脚付近に姿を現し、周囲を徘徊し始めた。これを自分たちに対する監視、包囲の動きかもしれないと警戒した犯人グループは計画を察知されることを恐れ敷設を断念、計画は未遂に終わった。近い将来に虹作戦を再び行うため、電線はすべて回収し証拠を隠滅した。
 
なお、計画では当日にお召し列車が走る全区間での[[日本の警察|警察]]、[[日本国有鉄道|国鉄]]関係者による最終調査・点検と[[警備]]の実施を考慮しておらず、仮に電線の敷設が完了していても、事前に察知される可能性があったことは否定できない。虹作戦当日の荒川鉄橋でも、通過時間の前後には[[日本の警察官|警察官]]らが不審物の検索を行い、警備に当たった。また、爆弾を仕掛けようとしたのは東北本線上り線の橋梁だったが、実際にお召し列車が通過したのは[[東北貨物線]]であった。
 
この虹作戦のために製造されていた爆薬「セジット」は、後に[[三菱重工爆破事件]]で使用されている。予想を上回る大惨事になったのは、列車爆破用の爆弾を転用したからである。そして、翌年の[[1975年]][[5月19日]]にメンバーが一斉[[逮捕]]。再度、虹作戦が実行に移される事はなかった。
 
== 作戦名の由来 ==
26行目:
 
== 参考文献 ==
* 松下竜一『'''狼煙を見よ'''』読売新聞社、1997年
 
== 関連項目 ==