「V9 (読売ジャイアンツ)」の版間の差分
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== 概要 ==
後に巨人の第3次黄金時代かつ、究極の栄光期とも称される。この時代の巨人は、[[1961年]](昭和36年)に就任した[[川上哲治]]監督のもと、[[王貞治]]・[[長嶋茂雄]]という二人の
このV9の時期はまた、日本の[[高度経済成長#日本の高度経済成長|高度経済成長期]]とほぼ重なり、その終焉も[[オイルショック]]によるそれの終焉と同時期であった。このことから、時代を象徴する出来事の一つとして語られることも多い。
== 特徴 ==
* 第2次黄金時代を築いた[[水原茂]]の後を継いで監督に就任した川上は、選手個々の実力よりも、「'''[[ドジャースの戦法|ドジャース戦法]]'''」の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先し<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20140930_278856.html V9正捕手・森氏「川上さんから守備の全てを任されていた」]</ref>、1965年よりV9を達成した。川上監督の下には自己のチームデザインを実行する[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]などのスタッフと豊富な戦力が脇を固めていた。
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* ただし、この当時の巨人は[[1990年代]]以降の巨人にみられる[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA制度]]で選手をかき集めた重量級打線ではなく、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を守備で徹底して守る、いわゆる[[スモールベースボール]]であった。V9期間中に[[規定打席]]に到達しての打率3割は王・長嶋以外誰も記録できなかった<ref>長嶋の入団初年度である1958年からV9を達成した1973年までは巨人で規定打席到達での打率3割を記録した選手は王・長嶋のみであった(1974年に末次が記録。1968年の高田は規定打席未到達)。</ref>。
* 一方、当時は[[先発ローテーション]]が確立しておらず、セ・リーグの他球団のエースが先発、抑えの区別なく巨人戦中心に登板することが当然であったが、投手タイトルは[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]と[[最多勝利]]のタイトルそれぞれ2回ずつの獲得(投票で選ばれる[[最優秀投手]](1967年より表彰)は3回獲得している)にとどまった。V9時代のエースだった[[堀内恒夫]]も、当時は自分と[[高橋一三]]しかいなかったと語っており、この2人が先発した2日後にはリリーフで登板するなど、フル回転でチームに貢献した。
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* V8([[1972年]])とV9(1973年)のリーグ優勝は[[阪神甲子園球場]]で達成されたが、[[阪神ファン]]がグラウンドに雪崩れ込んだため球場での[[胴上げ]]は中止となった(1973年のリーグ優勝決定試合のスコアは[[s:1973年セ・リーグの最終決戦]]参照)。
* 本拠地の後楽園球場で胴上げが行われたのは[[1966年]]・[[1968年]]・[[1969年]]・[[1971年]]の4回で、1965年・[[1967年]]は2位の中日が負けて優勝、[[1970年]]は[[ナゴヤ球場|中日球場]]で優勝を決めた。
* 9年間を通じて、日本シリーズで第7戦までもつれこんだことは一度もなかったし、また無傷の4勝もない。4勝1敗(V1,V6~V9)または4勝2敗(V2~V5)で日本一を達成している。第3戦までで必ず3勝あるいは2勝1敗と勝利数が先行していた([[1972年の日本シリーズ|V8]]を除き第3戦は必ず勝利している。そして、第4戦以降は一度も勝ち数で並ばれることはなかった。
* [[1960年代]]前半に[[プロ野球中継|テレビ中継]]の普及とともに巨人は爆発的な人気を獲得し、「子供の好きなものといえば「[[巨人・大鵬・卵焼き]]」」と言う言葉ができるなど、V9が始まる前に社会現象となっていた(なお、[[アンチ巨人]]は「大人の好きなものは[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]・[[柏戸剛|柏戸]]・[[ふぐちり]](あるいは[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]・柏戸・[[水割り]])」と言っていた)。V9の期間中も観客数の増加傾向は続いていたが、シーズンによっては観客数が落ち込んだこともあり、それまでより観客数の増加ペースは落ちていた。また、V9の期間中、関東地区におけるテレビ[[視聴率]]は低下傾向であり、[[1970年代]]後半以降より視聴率は低かった。
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