「奥田重盛」の版間の差分

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正保4年(1647年)、[[奥田孫太夫 (江戸時代前期)|奥田孫太夫]]の子として誕生。母は[[久米半右衛門]]([[相馬長胤]]家臣)女。
 
はじめ、[[志摩国]][[鳥羽藩]][[内藤氏|内藤家]]に仕えたが、[[寛文]]2年([[1662年]])に[[内藤忠政]]の娘・[[内藤波知|波知]]が[[赤穂藩]]主・[[浅野長友]]([[浅野長矩]]の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸でつとめた。[[延宝]]8年([[1680年]])、[[内藤忠勝]]が芝[[増上寺]]での[[江戸幕府]]4代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]の葬儀の場で[[永井尚長]]を殺害し鳥羽藩は[[改易]]となると、父・孫太夫は[[浪人]]となったが、重盛はそのまま赤穂藩に仕えた。赤穂藩では武具奉行(150石)をつとめた。
 
重盛は[[江戸]]で剣客として知られた[[堀内正春]]に学び、[[堀部武庸]]とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。また、重盛には男子がなかったため、[[近松行重]]の弟・[[奥田行高]]を養子に迎えた。