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{{Portal クラシック音楽}}'''ルドルフ・コーリッシュ'''('''Rudolf Kolisch''', [[1896年]][[7月20日]] - [[1978年]][[8月1日]])は[[オーストリア]]出身の[[ヴァイオリニスト]]で、[[弦楽四重奏団]]のリーダー。[[教育者]]や[[音楽学者]]としても重要である。
[[ニーダー・エースターライヒ州]]の
[[1919年]]より作曲を[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]に師事したことから、間もなく[[私的演奏協会|ウィーン私的演奏協会]]
[[第二次世界大戦]]の勃発までに[[ニューヨーク]]に上陸したコーリッシュは、当初はコーリッシュ四重奏団の維持に努めようとするも失敗し、ニュー・スクール大学の教員として、講座「演奏(音楽の意味の実現)」を担当する。また[[オットー・クレンペラー]]と共同で、学内アンサンブル(室内オーケストラ)を設立し、その最初の演奏会で、バルトークの《[[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽]]》や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の《[[兵士の物語]]》、シェーンベルクの《[[室内交響曲第1番 (シェーンベルク)|室内交響曲第1番]]》の米国初演を実現させる。この間に別の室内アンサンブルを準備して、作曲者自身の指揮による《[[月に憑かれたピエロ]]》の録音に参加、さらに論文『[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の音楽における速度と性格
[[1944年]]に[[ウィスコンシン大学]]に招かれて[[マディスン]]に行き、正教授に迎えられると同時に、[[プロ・アルテ弦楽四重奏団]]のリーダーに就任する。同団体は、おそらく米国で最初の大学常駐アンサンブルだったらしい。[[1950年代]]には再びソリストとしてヨーロッパで演奏旅行を行い、[[ダルムシュタット夏季現代音楽講習会]]
コーリッシュは、[[1930年代]]に[[ピアニスト]]のヨセファ・ロサンスカ
コーリッシュの書類は、[[ハーヴァード大学]]ヒュートン図書館の原稿部門に保管されている。
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[[Category:オーストリアのヴァイオリニスト]]
[[Category:ニューイングランド音楽院の教員]]
[[Category:アルノルト・シェーンベルク]]
[[Category:1896年生]]
[[Category:1978年没]]
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