「ルドルフ・コーリッシュ」の版間の差分

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森園千歳 (会話 | 投稿記録)
英語版を見ると、彼はユダヤ系のようでした。
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[[ニーダー・エースターライヒ州]]のクラム(Klamm)出身で、[[ウィーン]]で育つ。同名の父親は[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の著名な[[内科医]]で、[[ウィーン大学]]の講師だった。[[第一次世界大戦]]後に、ウィーン大学に通うかたわら[[ウィーン音楽院]]にも在籍し、[[ヴァイオリン]]を[[オタカル・シェフチーク|シェフチーク]]に、[[作曲]]を[[フランツ・シュレーカー|シュレーカー]]に、[[指揮 (音楽)|指揮法]]を[[フランツ・シャルク|シャルク]]に師事。当初は[[指揮者]]の道を歩むつもりであった。
 
[[1919年]]より作曲を同胞の[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]に師事したことから、間もなく[[私的演奏協会|ウィーン私的演奏協会]]の活動に参加させられる。これがきっかけとなって、シェーンベルク作品の上演を目的としてウィーン弦楽四重奏団(Wiener Streichquartett)を旗揚げし、多くのリハーサルでシェーンベルク自身の監修を受けた。一方で同団体は、シェーンベルクの指導方針に従い、古典的なレパートリーの演奏にも取り組んだ。[[1927年]]までに[[コーリッシュ四重奏団]]に改称する。シェーンベルクのほかにも、[[アルバン・ベルク|ベルク]]や[[アントン・ヴェーベルン]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]からも新作を提供されるようになる。なお、妹のゲルトルート({{enlink|Gertrud Schoenberg|p=off}}, 1898年 – 1967年)は、1924年にシェーンベルクの2度目の妻になった。
 
[[第二次世界大戦]]の勃発までに[[ニューヨーク]]に上陸したコーリッシュは、当初はコーリッシュ四重奏団の維持に努めようとするも失敗し、ニュー・スクール大学の教員として、講座「演奏(音楽の意味の実現)」を担当する。また[[オットー・クレンペラー]]と共同で、学内アンサンブル(室内オーケストラ)を設立し、その最初の演奏会で、バルトークの《[[弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽]]》や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の《[[兵士の物語]]》、シェーンベルクの《[[室内交響曲第1番 (シェーンベルク)|室内交響曲第1番]]》の米国初演を実現させる。この間に別の室内アンサンブルを準備して、作曲者自身の指揮による《[[月に憑かれたピエロ]]》の録音に参加、さらに論文『[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の音楽における速度と性格』(''"Tempo and Character in Beethoven's Music"'')を執筆し、米国音楽学会ニューヨーク支部に提出。同論文は、後に学術雑誌『ミュージカル・クォータリー "』(''"Musical Quarterly"''"』誌に掲載された。ちなみにこの論文は、ベートーヴェンのオリジナルの[[メトロノーム]]記号の意義を現代に甦らせた、最初の英語論文の一つであった。
 
[[1944年]]に[[ウィスコンシン大学]]に招かれて[[ウィスコンシン大学マディソン校|マディソ]]に行き、正教授に迎えられると同時に、[[プロ・アルテ弦楽四重奏団]]のリーダーに就任する。同団体は、おそらく米国で最初の大学常駐アンサンブルだったらしい。[[1950年代]]には再びソリストとしてヨーロッパで演奏旅行を行い、[[ダルムシュタット夏季現代音楽講習会]]の講師を、旧友[[エドゥアルト・シュトイアーマン]]や[[テオドール・アドルノ]]らとともに引き受ける。[[1956年]]に1年間[[ダルムシュタット]]に暮らしたのを除けば、[[1966年]]に定年退職を迎えるまでマディスンに過ごした。その後は[[ガンサー・シュラー]]に招かれてボストンのニューイングランド音楽院の[[室内楽]]科の主任教授を担当し、亡くなるまでその地位にあった。[[1974年]]の夏から[[1977年]]まで、ウィーン郊外の[[メートリンク]]にて例年開催の「シェーンベルク講習会」でも室内楽演奏の教鞭を執った。
 
コーリッシュは、[[1930年代]]に[[ピアニスト]]のヨセファ・ロサンスカ(Josefa Rosanska, [[1904年]] - [[1986年]])と結婚するが、やがて離婚し、[[1940年代]]初頭にヴィオラ奏者のローナ・フリードマン(Lorna Freedman, [[1917年]] - [[2006年]])と再婚した。