削除された内容 追加された内容
48行目:
 
* [[宣化天皇]]3年(538年)、大伴磐は[[大伴金村]]の子で、任那を救援した後、甲斐国山梨評山前邑に任地(『古代豪族系図辞典』)。
* [[永昌]]元年(689年)、[[那須]][[国造]]で評督に任ぜられた[[那須直葦提]]の事績を息子の[[意志麻呂]]らが顕彰するために碑を建て、[[国宝]][[那須国造碑]]として現存する。
* [[藤原京]](694~710年)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記された荷札として付けられた木簡が見つかっている<ref>松田猛・関口功一「国分寺のいらか 1 上野国の誕生」西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編『群馬県の歴史』山川出版社 2003年11月 34ページ</ref>。
* 九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国穎娃郡(えいぐん、『続日本紀』文武4年六月庚辰条)か、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(くすぐん、大宰府政庁跡出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(こゆぐん、藤原京跡出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料に現れない郡レベルの行政単位が記されたものも見つかっている。