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[[天長]]2年([[825年]])子女を[[臣籍降下]]させ平(たいら)の姓を称することを[[上奏]]して許さる。のち、[[上野国|上野]][[国司|太守]]、[[常陸国司|常陸太守]]を兼務して、天長8年([[831年]])には[[託基皇女]]以来80年ぶりに[[一品親王|一品]]に叙せられている。
 
[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])[[甲斐国]][[巨麻郡]]の牧であった「馬相野空閑地五百町」(現在の[[山梨県]][[南アルプス市]])を与えられている。[[嘉祥]]3年([[850年]])には再度[[大宰帥]]に任じられた。
 
仁寿3年([[853年]])6月4日に[[崩御#薨去|薨去]]した。享年68。最終官位は一品大宰帥。[[遺言]]により[[葬儀]]は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が[[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]]にある。
 
親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年([[810年]])に[[任官]]ののち、途中弘仁14年([[823年]])から天長7年([[830年]])の期間を除いて、嘉祥3年([[850年]])に[[大宰帥]]に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、[[六国史]]の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」<ref name="a">『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿3年6月4日条</ref>と親王自身が政務に熟達し、[[朝廷]]で重んじられていたことが記されている。
 
== 人物 ==