「ヴィルヘルム・リープクネヒト」の版間の差分

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== 経歴 ==
現在の[[ヘッセン州]][[ギーセン]]に官吏の子として生まれ、[[1832年]]に両親を失ってからは親戚のもとで育った。11歳の時に、血縁であった叔父の教育者[[フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒ]]が反乱を企てたかどで逮捕され、予審判事の拷問と侮辱に耐えかねて自殺するという事件が起きた。このことはリープクネヒトをして[[社会正義]]に目覚めさせ、民主主義運動に向かわせるきっかけとなった。[[ギムナジウム]]に入学し優秀な成績をおさめた一方、[[アンリ・ド・サン=シモン]]の著書に親しんだ。[[ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン|ギーセン大学]]や[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]などで言語学や哲学を学んでいたが、[[社会主義]]の宣伝活動に加わったことで大学を追放された。[[1848年]]9月の[[1848年革命|バーデン一揆]]に参加し逮捕・投獄されたが、翌年5月には釈放され、国民軍の砲兵となった。その後ラシュタットの牢獄に再投獄され釈放されたのち、帝国憲法闘争に参加した。[[スイス]]に亡命し、[[ジュネーヴ]]でドイツ人労働者協会を組織したが、[[1850年]]2月に[[ムルテン]]でおこなわれた大会で逮捕され、武装侵略を企てた容疑により同志295名とともに国外追放された。
 
[[ロンドン]]における亡命生活に入って間もなく、[[カール・マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス]]の知遇を得て[[共産主義]]者となり、行動を共にするようになった。[[1862年]]に帰国し『北ドイツ新聞』(''Noddeutsche Allgemeinezeitung'') などの新聞に寄稿して生活するかたわら、労働者組合の会議に出席して、[[オットー・フォン・ビスマルク]]の政策を攻撃した。そのため[[1865年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]を追われて[[ライプツィヒ]]に居住し、『中央ドイツ民報』(''Mitteldeutsche Volkszeitung'') 紙の編集者になった。同じ年に[[アウグスト・ベーベル]]と知り合い、ザクセン地方で遊説することを引き受け、労働者強化組合で講義もした。[[1866年]]に[[ザクセン人民党]]を設立し、翌年にはベーベルとともに[[北ドイツ連邦]]議会議員に選出された。[[1868年]]に創刊した『民主主義週報』(''Demokratisches Wochenbratt'') を拠点として、ドイツの無所属労働組合をマルクス派に結集し、[[1869年]]8月の[[アイゼナハ]]労働組合大会で社会民主労働党の創立を決定させるまでになった。