「ヴィルヘルム・リープクネヒト」の版間の差分
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== 経歴 ==
現在の[[ヘッセン州]][[ギーセン]]に官吏の子として生まれ、[[1832年]]に両親を失ってからは親戚のもとで育った。11歳の時に、
[[ロンドン]]における亡命生活に入って間もなく、[[カール・マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス]]の知遇を得て[[共産主義]]者となり、行動を共にするようになった。[[1862年]]に帰国し『北ドイツ新聞』(''Noddeutsche Allgemeinezeitung'') などの新聞に寄稿して生活するかたわら、労働者組合の会議に出席して、[[オットー・フォン・ビスマルク]]の政策を攻撃した。そのため[[1865年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]を追われて[[ライプツィヒ]]に居住し、『中央ドイツ民報』(''Mitteldeutsche Volkszeitung'') 紙の編集者になった。同じ年に[[アウグスト・ベーベル]]と知り合い、ザクセン地方で遊説することを引き受け、労働者強化組合で講義もした。[[1866年]]に[[ザクセン人民党]]を設立し、翌年にはベーベルとともに[[北ドイツ連邦]]議会議員に選出された。[[1868年]]に創刊した『民主主義週報』(''Demokratisches Wochenbratt'') を拠点として、ドイツの無所属労働組合をマルクス派に結集し、[[1869年]]8月の[[アイゼナハ]]労働組合大会で社会民主労働党の創立を決定させるまでになった。
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