「平教盛」の版間の差分

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清盛が後白河院と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河院に接近し[[院近臣]]として活動した。ただし[[正室]]腹の異母弟・[[平頼盛|頼盛]](池殿)に比べると、清盛に従順であったという<ref>「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋クオボツカナケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ据置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相ト申ケル也」(『[[源平盛衰記]]』巻六「丹波少将被召捕」)</ref>。
乱後、[[正四位下]]・[[常陸国|常陸介]]に叙任されていたが、[[応保]]元年([[1161年]])[[9月15日_(旧暦)|9月15日]]、二条天皇を廃して憲仁親王(後の[[高倉天皇]])擁立を図ったとの容疑のため[[解官]]される。これは後白河上皇と二条天皇との対立の巻き添えを受けたもので、院に近い[[平時忠]](清盛の義弟)や[[藤原成親]]も同時に解官されている。なお、翌年には[[能登国|能登]][[受領|守]]に復職している。
 
[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])に[[正三位]][[参議]]に進み、'''門脇宰相'''と呼ばれた。
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** 改元して[[平治]]元年12月27日:[[越中国|越中守]]([[平治の乱]]の勲功)。左馬権頭如元
* [[永暦]]元年([[1160年]])
** 正月21日:[[常陸国|常陸介]]。左馬権頭如元
** 6月3日:従四位上(兄・清盛が、[[肥前国]]住人・通能を追討)
** 10月11日:[[正四位|正四位下]]