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誕生日の訂正とゲーオア・ブランデス、実存主義、ニヒリズムについて
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[[Image:Si Léon Chestov noong 1927.jpg|thumb|250px|1927年のレフ・シェストフ]]
'''レフ・シェストフ'''(Lev Isaakovich Shestov,Лев Исаакович Шестов、[[1866年]][[2月1312日]]([[ユリウス暦]]1月31日)- [[1938年]][[11月19日]])はロシア系[[ユダヤ人]]の哲学者。本名はレフ・イサコヴィッチ・シュワルツマン(Шварцман)。日本語ではドイツ語名Leo Schestowの影響から「'''レオ'''・シェストフ」とも表記される。
 
== 生涯 ==
[[キエフ]]のユダヤ系商人の家に生まれ、[[モスクワ]]の州立大学で数学と法律を学ぶ。学監との衝突のためキエフにもどり学術論文を完成するが、その革命的な傾向のために受理されず、法律の学位を取ることができなくなった(のちに[[ベルリン]]で法律学を修める)。[[1898年]]から、[[ニコライ・ベルジャーエフ]]、[[セルゲイ・ディアギレフ]]、[[ディミートリ・メレジコフスキー]]、および[[ヴァシーリー・ローザノフ]]などの知識人のサークルに入り、その同人誌に寄稿しはじめた。
 
[[1908年]]にドイツの[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]、ついでコベットというスイスの小村に移住し、[[1910年]]までそこに滞在した。[[1915年]]にモスクワにもどるが、[[1919年]]の[[ボルシェヴィキ]]による政権奪取の時期から、生活は困難となりフランスへと亡命することになった。[[1925年]]から[[ソルボンヌ大学]]で哲学の講義を受け持ち、[[ブレーズ・パスカル]]と[[プロティノス]]の研究に打ちこむ。[[1926年]]に[[エトムント・フッサール]]、[[1929年]]に[[マルティン・ハイデッガー]]と知り合い、特にハイデッガーには[[セーレン・キェルケゴール]]の重要性を教えられ、宗教と[[実存主義]]哲学へと目を開かせられる。[[1938年]]から重い病にかかりつつインド哲学の研究を進め、[[パリ]]の診療所で亡くなる。
 
== 思想と影響 ==
1898年に発表した『シェークスピアとその批評家[[ゲーオア・ブランデス|ブランデス]]』は大胆な判断で注目を集め、[[1903年]]『ドストエフスキーとニーチェ(悲劇の哲学)』、[[1908年]]の[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]論『虚無よりの創造』などの作家論・哲学者論で、真理は理性を越えると主張し、あらゆる合理主義に対立した。このような傾向は、[[ニコライ・ベルジャーエフ|ベルジャーエフ]]がロシア的精神の特長として指摘した「[[ニヒリズム]]」、文化や文明の賜物を重視しない態度の延長であり、シェストフは実存主義に通じる「絶望の哲学」を展開した。この哲学は1890年代以降ロシアで高まった反写実主義の思潮に合致し、その[[レトリック]]を駆使した名文も相まって、象徴派作家に愛好された。亡命後の著作は第一次大戦後のヨーロッパに「不安の哲学」として迎えられ、[[D・H・ロレンス]]、[[アルベール・カミュ]]、[[ジョルジュ・バタイユ]]、[[アイザイア・バーリン]]、[[バンジャマン・フォンダーヌ]]などにも大きな影響を与えた。
 
日本では[[1934年]]に刊行された『悲劇の哲学』が発端となり、[[満州事変]]以後の思想弾圧と社会不安にさらされた知識人の間に、一時的な激しい流行を見た。[[河上徹太郎]]が当時のシェストフの主な紹介者であり、文壇において「シェストフ的不安」という造語が生まれた。