「石田朝成」の版間の差分

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慶長3年([[1598年]])に弟の主水正と共に詰判衆として[[豊臣秀頼]]に仕える。慶長5年(1600年)の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に組し、父・正澄ら一族と共に[[佐和山城]]を守備した。しかし本戦で三成率いる西軍が敗れたため、佐和山城も勢いに乗った[[小早川秀秋]]軍らに猛攻をしかけられ、9月18日父と共に自害した(西国に逃れのちに[[近江国]]に戻ったとの説もある)。戒名は宝光院竹心宗脩禅定門。
 
[[辞世]]のは、「気にさそなにしに心はいそかるるかたふく月も今はいとはし」と伝わる。
 
弟の主水正は、佐和山城落城の折りには[[大坂城]]に詰めており、従者2人と[[高野山]]に上り[[木食応其|木喰上人]]を頼るが、高野山を下りることになり、同年12月2日に自刃した。