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[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍から、捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守った(但し自身の法廷では沈黙を続けたため一切の証言記録が残っていないが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったため、洪の置かれた状況や心情は他の裁判記録によって間接的に伺い知ることができる)。韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが結局流れを変えることはできなかった。その結果、[[マニラ軍事法廷]]で[[戦犯]]として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年[[9月26日]]に[[マニラ]]で処刑された。
 
辞世のは、「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」、「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」。
 
== 子息 ==