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亡骸を調べると義久に宛てた遺書と[[辞世の句]]が見つかり、そこには「私は病に侵され、[[太閤]]殿下の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために[[切腹]]しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではない」という主旨の文がしたためられていたと伝わる。
 
辞世のは「晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」。
 
首級は[[京都]]・[[一条戻橋]]に晒された後[[島津忠長]]によって盗み出され京都[[浄福寺]]に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に[[心岳寺]]を建立し霊を祭った<ref>現在の平松神社はこの心岳寺の跡地に立てられたもの。毎年旧暦7月18日にはその遺徳を偲んで「心岳寺詣り」が行われる。</ref>。
 
歳久死後、娘婿・忠隣の[[嫡男]]・[[島津常久]]が跡を継いだ。その子孫は藩政時代を通して日置領9000石を領したために日置島津家と称され、維新に至りて男爵に叙された。
 
 
=== 人物・死後 ===