「福富秀勝」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 馬廻時代 ===
[[尾張国]](現在の[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]岩塚村(現在の[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]岩塚町)の出身。福富氏は[[美濃国]][[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]福富(現在の[[岐阜県]][[岐阜市]]福富)の出身で、[[清和源氏]][[土岐氏]]支流の[[明智氏]]の一族とも言われ、父の代に尾張に移住して織田家に仕えたという。[[織田信長]]に[[馬廻]]として仕え、[[永禄]]4年([[1562年]])の[[軽海の戦い]]に参加。のち、[[赤母衣衆]]に選抜され、その後は信長の出陣したほとんどの合戦に従軍する。
 
永禄12年([[1569年]])8月の[[大河内城の戦い]]では「尺限廻番衆」の一人として守備にあたり、[[元亀]]元年([[1570年]])4月には[[朝倉氏]]攻めに従軍、同年8月には[[大坂]]の[[守口市|守口]]近郊で[[一揆]]と交戦している。また、[[天正]]3年([[1575年]])5月の[[長篠の戦い]]では[[佐々成政]]・[[前田利家]]・[[野々村正成]]と共に鉄砲隊を指揮した。天正5年([[1577年]])2月からの[[紀州征伐#信長の紀州攻め|雑賀攻め]]にも従軍。ただ、この後より秀勝の立場は馬廻として戦に出る事よりも中央で政務を担当する事が多くなり始め、副状の発給などが以前より多く見られるようになる。