「ハーラル3世 (ノルウェー王)」の版間の差分

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m →‎経歴: ハラルド2世がイングランド王である事を明記、注釈の範囲を拡大(ハーラル3世の死後の事を全て注釈に)
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== 経歴 ==
[[ファイル:Harald Hardraades saga-Harald og Svein-W. Wetlesen.jpg|thumb|right|220px|『ハラルド(ハーラル)苛烈王のサガ』の一場面]]
[[1030年]]に[[デンマーク]]王[[クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌート大王]]に[[ノルウェー]]が征服されると、[[キエフ大公国]]の庇護を求めた。キエフ大公[[ヤロスラフ1世]]の[[ヴァリャーグ|親衛隊]]や[[東ローマ皇帝]]の[[ハスカール|ヴァリャーギ親衛隊]]に加わっていたとも言われる武断派で、甥の[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]を追放してノルウェー王に就いた。1045年には、キエフ大公[[ヤロスラフ1世]]の娘[[エリザヴェータ・ヤロスラヴナ|エリザヴェータ]]と結婚している。
 
[[エドワード懺悔王]]の死後、[[イングランド王国|イングランド]]を手中に収めんとして、イングランド王[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]の弟[[トスティ・ゴドウィンソン|トスティ]]を支援して戦うも、[[スタンフォード・ブリッジの戦い]]でトスティと共に戦死した<ref group="注釈">ハーラル3世の死後、ハロルド2世も[[10月14日]]の[[ヘイスティングズの戦い]]で[[ノルマンディー公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]<ref group="注釈">に敗れて戦死。ギヨーム2世はイングランド王ウィリアム1世として即位、[[ノルマン朝]]を開いた([[ノルマン・コンクエスト]])。</ref>に敗れて戦死した
 
ハーラルの死後、ノルウェーは2人の息子{{仮リンク|マグヌス2世 (ノルウェー王)|en|Magnus II of Norway|label=マグヌス2世}}と{{仮リンク|オーラヴ3世 (ノルウェー王)|en|Olaf III of Norway|label=オーラヴ3世}}が共同統治した。