「アメリゴ・ヴェスプッチ」の版間の差分

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なお、ヴェスプッチの子供の頃の肖像画は、フィレンツェのオグニサンティ協会にあるドメニコ・ギルランダイオによって描かれた聖母マリアの一部に描かれている。
 
父ナスタジオの弟[[ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ]]から教育を受け、[[ラテン語]]と[[ギリシア語]]を習得し、[[プラトン]]を始めとする[[古典古代]]の文学や地理学に親しむようになる。当時高名な[[人文主義者]]として知られたジョルジョ・アントニオは[[メディチ家|メディチ]]分家の[[ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ]]の文化人サークルに属していた。ボッティチェッリとギルランダイオもこのサークルと関係を持った。メディチ家追放後にフィレンツェの指導者となった[[ピエロ・ソデリーニ]]とはジョルジョ・アントニオの元で共に学んだ仲であり、アメリゴは『四回の航海』を彼に献じている。「あの過ぎ去った日々に、私たちは畏敬すべき善知識にして聖マルコ派の修道僧、ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ師のよき手本と理論のもとに文法学の初歩を聴講したものでありました。<ref>長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『四回の航海』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、263頁。</ref>」
 
ヴェスプッチ家はメディチ本家と分家の両方に関わっていたが、一族の中でも最も出世頭であったグイド・アントニオ・ヴェスプッチは本家の[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ・イル・マニフィコ]]に仕えていた。1478年、グイド・アントニオがフィレンツェ大使として[[フランス]]に派遣された際、彼は当時24歳のアメリゴを秘書官として同行させた。当地に約2年滞在して任務をこなした後、[[ボローニャ]]と[[ミラノ]]の宮廷を経由してフィレンツェに帰国した。
 
アメリゴは最終的には分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕えることとなる。ヴェスプッチ家のセミラミデがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに嫁いだ時、アメリゴは彼の家の[[執事]]として仕え始める。[[スペイン]]、[[セビリア]]にある[[メディチ銀行]]の代理店に不正の疑いがかかった時、1489年に分家当主はアメリゴをその調査のため現地に派遣した。アメリゴはそこで親しくなった在スペイン歴の長いフィレンツェ人ジャンネット・ベラルディを信用のおける新支店長候補とし、1~21~2ヶ月滞在の後フィレンツェへと引き揚げた。その帰途で[[ピサ]]に立ち寄り、金130[[ドゥカート]]で航海地図を購入している。
 
ベラルディ商会がセビーリャにおけるメディチ銀行代理店となったので、アメリゴは1491年に再び[[セビリア]]に赴く。ここでベラルディ商会に入り、メディチ家の事業を監督することになった。
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1501年から1502年にかけた第三回航海で南米大陸東岸に沿って南下した。あまりの寒さと暴風雨の厳しさに耐えかね引き返さざるを得なかったが[[南緯50度線|南緯50度]]まで到達することができた。当初ヴェスプッチに指揮権は無く、ゴンサロ・コエーリョ (Gonçalo Coelho) の指揮下にあったが、最終的にヴェスプッチが責任者となった。
 
アメリゴはこの第三回航海の最中にヨーロッパ人初の南半球での天体観測を行ったが、その記録はポルトガルの航海に関わる機密情報とみなされてマヌエル王によって没収された。地理学書の執筆に必要なその記録の返還を求め続けたが結局戻されることはなかった。『新世界』でも「第三の日誌を当ポルトガル国王陛下からお返ししていただきますならば<ref>長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、336頁。</ref>」、「当国王陛下からいまだ記録をお返ししていただかないという理由を御了承いただけるものと存じます<ref>長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、337頁。</ref>」と何度か触れて、他国への機密流出のためではなく純粋に学術的目的のために返還を求めているのだと訴えている。
 
1503年から1504年にかけての第四回航海では南米北東部沿岸を探検した。ポルトガル王の元で二回の探検調査を終えた後、アメリゴは1505年にスペインの[[セビリア]]に帰還する。