「田宮虎彦」の版間の差分

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Momokkou (会話 | 投稿記録)
同人誌、研究誌を追記。テレビドラマの記述を映画作品の最後に移動。
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== 経歴 ==
[[東京]]生まれ、[[神戸市]]に育つ。船員である父親の都合で転居を繰り返し、[[兵庫県立神戸高等学校|兵庫県立第一神戸中学校]]から[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を卒業。三高では彼の入学年度から保証教授制度によりの管理が厳しくなったが「別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった」と自ら明るい学生生活を振り返っている。
 
[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]国文学科在学中から、[[同人誌]]『日暦』に参加し、小説「無花果」などを発表した。[[1936年]]、『人民文庫』創刊とともに参加するが、治安維持法により度重なる発禁処分を受けた人民文庫は廃刊。「沈没しようとしていた船からいち早く脱出した鼠」と[[古澤元]]は自主解散派だった田宮を評した。その後、女学校教師などをしながら小説修業を続ける。
[[1947年]]に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入る。精力的に作品を発表し、[[1951年]]『絵本』で[[毎日出版文化賞]]を受ける。
 
[[1956年]]11月、妻を胃癌で喪って悲嘆に暮れる。[[1957年]]、亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で[[光文社]]から刊行され[[ベストセラー]]となり多くの日本人が感動した。しかし、『[[群像]]』[[1957年]]10月号で[[平野謙 (評論家)|平野謙]]が「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」で夫婦観や文学観を「変態的」と評論し<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=YERZh9rucO8C&pg=PT40 『愛と死について考える』]田中澄江、PHP研究所, 1994</ref>、一部マスコミ[[1980年]]7月に多額[[小田切秀雄]]がカルチャーセンターの講義で「平野謙さんから聞いた話」として、田宮のことを「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」中傷発言<ref>大川渉『文士風狂録』194頁</ref>。これに対た{{要出典|date=2014、田宮は『新潮』1980610}}号に小文「トルストイとスターリン」を発表し、抗議した
 
[[1988年]]1月に[[脳梗塞]]で倒れ[[玉川病院|日産玉川病院]]にて療養、右半身不随になり、同年[[4月9日]]午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目の[[マンション]]11階ベランダから[[飛び降り|投身]][[自殺]]する。脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。[[享年]]77。墓所は[[多磨霊園]]にある。