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[[1673年]]に15歳で変声期を迎えたため聖歌隊を退いて、同年6月に王室の楽器管理を担当していたジョン・ヒングストン(''[[:en:John Hingeston|John Hingeston]]'')の助手として1年間ほど務めた。翌[[1674年]]には[[ウェストミンスター寺院]]のオルガン調律師に任じられ、同時に[[オルガニスト]]として務めていた[[ジョン・ブロウ]]に師事している。また写譜係をしながら、[[ウィリアム・バード]]、[[オーランド・ギボンズ]]、[[トマス・タリス]]などの作曲家たちの作品の研究していたが、これらを通して古い音楽の伝統を身に着けていた。なお作曲はこの頃からしていたとされるが、初期の作品はほとんど紛失している(ごくわずかに残されている歌曲とアンセムはこの時期のもの)。
[[1677年]]に[[マシュー・ロック]]が没し、
[[1680年]]、ロンドンに帰還した[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]のための祝賀音楽をはじめとする一連の歓迎歌やオードを作曲し、また同時に祝祭音楽や劇場で上演されるための付随音楽、宗教曲を含む合唱曲などの作曲を通して名声を高め、付随音楽『テオドシウス』(''Theodosius'',Z.626)などの最初の大作が生まれたのもこの時期であった。[[1682年]]、王室付属礼拝堂の3人のオルガン奏者の一人に選ばれ、[[1683年]]1月にはヒングストンの死に伴い後任として王室の楽器管理職に就任するなど要職を兼務し、彼の名声はさらに高まっていき、多忙ながらも充実な生活を送っていた。この年に出版された作品には、12曲からなる「[[ファンタジア]]」と題されたヴィオールのためのトリオ・ソナタや鍵盤楽曲(主にハープシコード)『音楽のはしため』などがある。
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