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早稲田大学時代のエピソードと,終戦時の役職について加筆
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[[三宅村]]神着地区の[[名主]]の[[庶子]]として生まれる。父が[[東京府]][[南葛飾郡]]砂村(現東京都[[江東区]])で[[酪農]]業をはじめ、稲次郎の母とは別の女性と再婚したのを期に実子として認知され引き取られた。その後[[東京都立両国高等学校|東京府立三中]]に入学。
 
[[医者]]になれという父の勧めを蹴り、[[大正]]7年([[1918年]])に[[早稲田大学]]予科に入学する。このことから父とはしばらく絶縁状態となり、稲次郎は友人の経営する文房具会社に参加して[[万年筆]]製作で糊口を凌いだという。早大在学中には[[早稲田大学雄弁会|雄弁会]]と恵まれた体格を活かして[[相撲]]部に在籍した。さらに漕艇部にも所属してレースにも出場し、[[大隈重信]]に体格の良さを褒められたと語っている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html 『私の履歴書 浅沼稲次郎』日本経済新聞社] 青空文庫による復刊</ref>。軍部への協力を目的にした学生団体への抗議集会の際には、みずから演説し運動部員や外部の右翼団体に殴る・蹴るの暴行を受けるなどした。その後大正8年([[1919年]])秋、[[大正デモクラシー]]期における代表的な学生運動団体である[[建設者同盟]]の結成に加わることにより[[社会主義]]運動に飛び込み、同志たちと全国の[[小作]]争議や[[労働争議]]を応援する日々を過ごした。[[関東大震災]]発生時は群馬県で集会に参加しており、あわてて東京に戻ったが、農民運動者の建物に身を寄せていたところ兵士に捕まり、騎兵連隊の[[営倉]]に拘束され、のち市ヶ谷監獄に入れられて看守から態度が悪いと暴行を受けた<ref>「私の履歴書」http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html</ref>。1923年に早稲田大学政治経済学部を卒業した後も、浅沼は社会主義運動を続け、1925年には日本で最初の単一[[無産政党]]である[[農民労働党]]の書記長に26歳の若さで推された。しかし、この党は結党わずか3時間で政府の命令で解散させられた。
 
=== 国家社会主義への傾倒 ===
[[1926年]]、単一無産政党として、[[労働農民党]]が結成されるが、まもなく[[社会民衆党]](右派)・[[日本労農党]](中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。[[1932年]]、分裂する無産政党を糾合し[[社会大衆党]]が結成されると浅沼もこれに加わったが、このとき浅沼は書記長の[[麻生久]]の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会変革を目指そうという[[国家社会主義]]的な路線を打ち出すとこれを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。[[1933年]]に東京市会議員、[[1936年]]には[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]に初当選。[[1940年]]に[[斉藤隆夫]]衆議院議員が、泥沼化する[[日中戦争]]に対して解決策を見いだせないまま戦争を継続する政府・軍部の姿勢を批判した[[反軍演説]]を行った時、その除名にも賛成した。
 
1940年に[[大政翼賛会]]が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任した<ref>『昭和の代議士』[[楠精一郎]] 文春新書</ref>。しかし同年に麻生が急死、心のよりどころを失った浅沼の精神的苦痛は大きく、[[1942年]]の総選挙(いわゆる[[翼賛選挙]])での立候補も辞退し、国政から一時離れることになった。しかし、このことが戦後の公職追放を免れる理由ともなった。同じ年、東京市議会議員選挙に立候補するが、官憲の妨害に合い落選。東京に都制が敷かれて最初の都議会議員選挙にも立候補し、当選して副議長に就任した。[[玉音放送]]は深川の自宅アパートで聴いた<ref>「私の履歴書」http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html</ref>
 
=== 日本社会党時代 ===