「クレメンス・クラウス」の版間の差分
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10歳で[[ウィーン少年合唱団]]に入団し、その後[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で作曲家[[リヒャルト・ホイベルガー]]に学ぶ。[[リガ]]、[[ニュルンベルク]]、[[シュチェチン|シュテッティン]]、[[グラーツ]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]など各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、[[1929年]]に[[フランツ・シャルク]]の後任としてウィーン国立歌劇場の[[音楽監督]]に、また翌年[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の後任として[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった[[世界恐慌]]で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。
[[1934年]]に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、[[1935年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と衝突して辞任した[[エーリ
第二次世界大戦終結直前の[[1944年]]、空襲が激しくなったウィーンに戻ってウィーン・フィルと行動を共にする。[[1945年]]、ソ連軍がウィーンを目前に迫った4月2日にウィーン・フィルと戦中最後の演奏会を行う(曲目は[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の「[[ドイツ・レクイエム]]」)。そしてソ連軍によるウィーン占領直後、オーストリア独立宣言の日([[4月27日]])には、解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する(曲目は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』序曲第3番]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第7(8)番「未完成」]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]])。その後、ナチスに協力したという容疑で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]により演奏活動の停止を命ぜられたが、[[1947年]]に非ナチ化裁判において無罪となり、活動を再開した。[[1954年]]に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや中南米で活躍した。
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戦後の活動で注目に値するのは、[[1952年]]のザルツブルク音楽祭において[[リヒャルト・シュトラウス]]の「[[ダナエの愛]]」の初演を行ったこと(1944年にすでに作曲家自身の前で[[ゲネプロ]]まで行ったが、ナチスの指示により公演中止となった)、および[[1953年]]に[[バイロイト音楽祭]]で[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の楽劇「[[ニーベルングの指環]]」「[[パルジファル]]」を指揮して大成功を収めたことである。バイロイト出演は、[[ヴィーラント・ワーグナー]]が音楽祭再開後に推し進めたいわゆる「新バイロイト様式」に、[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]が抗議して出演をキャンセルしたことに伴い実現した(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して呼び戻した)。
戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定の[[ウィーン国立歌劇場]]の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルの[[エーリ
==演奏スタイル==
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また、芸術に対する厳しい姿勢もあり、ハンス・ホッターは「舞台上演の後に練習をすることもあった」と語っている。
ウィーン生まれの指揮者で大成した存在は意外と少なく、戦後まで活躍した中で世界的大指揮者の域に達したのは(現在もなお)クラウスとエーリ
== レパートリー ==
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