「ボシュニャク人」の版間の差分
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[[File:Yugoslavia 2008 ethnic map fr.svg|thumb|300px|旧[[ユーゴスラビア]]の民族分布(2008年)。緑がボシュニャク人。]]
'''ボシュニャク人'''(
バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にも[[ポマク人]]のようなブルガリア人ムスリムの民族や、[[アルバニア人]]、[[トルコ人]]、[[ロマ]]のような非スラブ系ムスリムも存在する。
== 概要 ==
ボシュニャク人の概念はボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム化と関係している。この地域のイスラム化は[[オスマン帝国]]の支配下に入った1480年代ごろである。それまではボスニア・ヘルツェゴビナでは[[ローマ・カトリック]]などキリスト教が信仰されていたが、カトリックなのに[[ラテン語]]ではなく[[スラブ語]]で典礼を行うほか、土俗信仰に基づいた「[[二元論]]」の採用など教義が独自の変容を遂げ「異端」とみなされるようになり、ついに「ボスニア教会」と呼ばれる独自の教会を設立するに至った。カトリックが一部の支配階級の信仰であり、大半の民衆は異端思想にひかれていったこと。しかし異端の「ボスニア教会」は広範な布教をするわけでなく修道院などで信仰されていたことや体系だった教義を確立するに至らなかったことが、オスマン帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを支配下に置いた時に、民衆レベルでイスラム教が急速に浸透する要因となった。
また地主・富農階層などは新しい支配者オスマン帝国に既得権を安堵してもらうためにイスラム教に改宗した。そのため少数のイスラム教徒地主が多数のセルビア人、クロアチア人小作農を使用するという社会構造がオスマン帝国統治時代には見られた。
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
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