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正確性 = 2014年8月}}
[[ファイル:Burke-Edmund-LOC.jpg|right|thumb|200px|エドマンド・バーク]]
'''エドマンド・バーク'''({{lang-en-short|Edmund Burke}}、[[1729年]][[1月12日]] - [[1797年]][[7月9日]])は、[[アイルランド]]生まれの[[イギリス]]の[[政治思想|政治思想家]]、[[哲学者]]、[[政治家]]。「[[保守主義]]の父」として知られる。[[ダブリン]]で富裕な[[アイルランド国教会]]信徒の家庭に生まれ、イギリス[[庶民院 (イギリス)|下院]]議員([[1765年]] - [[1794年]])を務めた。[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]](後の[[保守党 (イギリス)|保守党]])に対する[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]](後の[[自由党 (イギリス)|自由党]])の幹部を務めたため、バークを保守主義者ではなく自由主義者に分類する説もある。{{要出典|美学でデビューした哲学者|date=2014年8月}}。
 
アメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対した。反フランス革命の立場をとったので、彼はホイッグ党の保守派派閥の中で率役者となった。彼はこれを「旧ホイッグ」と呼び、チャーリー・ジェームズ率いるフランス革命支持派の「新ホイッグ」に反対した。
 
=== 政治家として ===
1764年にハミルトンと決裂した後、1765年に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の派閥の領袖[[ロッキンガム侯]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]の秘書となり、[[バッキンガムシャー]]から選出されて英国[[庶民院 (イギリス)|下院]]議員となる。
 
国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と「王の友」と呼ばれた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員たちが[[名誉革命]]以降制限された諸権限を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により[[政党政治]]の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。
:昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいてなされてしまった。 フランスはこれまで世界に存在してきた有能な破壊の建築家を証明した。非常に短い時間で彼らは完全に自らの基礎を、君主を、教会を、高潔さを、法律を、収入を、陸海軍を、商業を、芸術を、工業を破壊した…。不合理、無節操、追放、押収、収奪、凶暴で血まみれで専制的な民主主義の行き過ぎの模倣である…これらの例の危険性はもはや不寛容からくるものではない…無神論、反則、悪行、一切の尊厳の敵、そして人間の慰めからくるのである。長い間、公認、そしてほぼ公然であった派閥に具現化されるフランスの中に、これらが存在するように思われる。<ref>Clark, pp. 66–7.</ref>
 
さらに1790年5月6日、英国[[庶民院 (イギリス)|下院]]でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。
 
同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。
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