「ニュージョージア島の戦い」の版間の差分

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== セ号作戦 ==
[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]][[参謀]]の[[木阪義胤]]中佐は、コロンバンガラ島からの撤退作戦を立案した。この作戦は「セ」号作戦と命名された。この作戦の目的は、コロンバンガラ島に集結した日本軍12,000名を、[[チョイセル島]]を経由して[[ブーゲンビル島]]に撤退させることであった。チョイセル島とコロンバンガラ島は最短で48キロしか離れておらず[[大発動艇|大発]]などの舟艇を多用することとなったが、収容可能な人数が少ないため2往復する事となった。それに向けて従来の襲撃部隊([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]])等に加え、駆逐艦「夕雲、風雲、秋雲、皐月(修理完了9月16日進出)、水無月(修理完了9月17日進出)、五月雨」が逐次増援部隊に加わった<ref name="叢書(96)289"/>
 
=== 参加兵力 ===
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**第17設営隊
**第19設営隊
第3水雷戦隊<ref>掩護部隊</ref> ([[伊集院松治]]大佐、旗艦:「秋雲」
*巡洋艦1隻、駆逐艦12隻
 
=== 第一次撤収作戦 ===
9月18日暮れに機動舟艇部隊は襲撃部隊(夜襲部隊《旗艦「秋雲」、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨》、輸送隊《皐月、水無月、文月》、警戒隊《天霧》、陽動隊《松風》)<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]297-298頁</ref>の支援のもとブーゲンビル島[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]を進発し、チョイセル島の基地に入った。沿岸に大発を隠匿したが、一連の行動は米軍に察知されており、9月20日に米軍機の攻撃によって大発10隻を喪失した。
 
芳村少将は9月26日に作戦実行を下令し、翌日、機動舟艇部隊はチョイセル島を出発してコロンバンガラ島に向かった。夜間にコロンバンガラ島に近づいたところを米軍の駆逐艦部隊に発見され大発4隻を失ったが、他の大発はコロンバンガラ島への突入に成功した。同島では受け入れと撤退準備が整っており接岸した大発を迅速に偽装して夜を待った。翌日28日の夜に兵士約5,000名を載せ、海軍舟艇部隊は洋上の駆逐艦4隻と合流し兵士を移乗させた。船舶工兵大隊の舟艇はチョイセル島へ直接向かい無事到着した。移動中米軍の[[魚雷艇]]6隻が来襲し大発2隻を失ったが、米魚雷艇は駆逐艦に撃退された。翌29日から30日にかけて1,100名の兵士を乗せコロンバンガラ島を出発した海軍舟艇部隊は、米艦隊に発見され大発1隻を失ったが、他はチョイセル島にたどり着いた。
 
=== 第二次撤収作戦 ===
9月3日に第二次撤収作戦が下令され、10月1日夜に機動舟艇部隊は駆逐艦「夕凪」を加えた襲撃部隊に支援され<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]299頁</ref>チョイセル島を発進した。米軍は第一次撤収作戦を受けて哨戒を強化しており、移動中の機動舟艇部隊は米駆逐艦6隻(ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ)に発見された。掩護に当たっていた[[潜水艦]]「[[伊20]]」は、米駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。機動舟艇部隊の各艇は散り散りとなってコロンバンガラ島に突入した。機動舟艇部隊は全ての部隊を収容し、翌2日夜にコロンバンガラ島を離れた。洋上で駆逐艦磯風、時雨、五月雨と合流し移乗を開始したが、米駆逐艦4隻が接近したため中止した。両艦隊は砲撃戦を行なったが、五月雨が小破したのみで日本海軍の駆逐艦は魚雷を発射してラバウルに後退した。のこされた機動舟艇部隊はそのままチョイセル島に脱出した。最終的に投入した大発の半数を失ったが、作戦は成功し1万2千名を脱出させることに成功した。
 
==アメリカ側の教訓==
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* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]40 南太平洋陸軍作戦(3)ムンダ・サラモア』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1970年
* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
* 駆逐艦秋雲会編 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
* 種子島 洋二著『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』、ISBN 978-4769823940
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4