「佐藤千夜子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
5行目:
 
*[[1920年]](大正9年)、[[東京音楽学校]](現[[東京芸術大学]])に入学。在学中に[[作曲家]]の[[山田耕筰]]、[[中山晋平]]、[[詩人]]の[[野口雨情]]らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。
*[[1925年]](大正14年)、[[ラジオ]]放送が開始され、ラジオを通して歌うようになり「青い芒(すすき」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器。(後の太平蓄音器)
*[[1927年]](昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新[[民謡]]・新[[童話]]コンサート」から生まれた「[[波浮の港]]」「を[[日本ビクター]]よりリリース。これが日本初の商業レコードとされている。「[[波浮の港]]」は10万枚のヒットとなるがこの時既に彼女は31歳であった。
*:同年、「[[当世銀座節]]」をリリース。また[[古賀政男]]の「[[影を慕いて]]」を歌う。これにより、古賀はメジャーデビューのきっかけを掴む。この曲は、後に[[藤山一郎]]が歌い大ヒットを記録する。
*[[1928年]](昭和4年)、「[[東京行進曲]]」を5月1日にリリース。[[菊池寛]]原作の同名小説を映画化した作品(主演[[入江たか子]])の主題歌に用いられ、日本初の[[タイアップ]]曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。又、全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。また、この曲は「[[歌謡曲]]」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「[[紅屋の娘]]」も一世を風靡した。
*:同年、「[[愛して頂戴]]」をリリース。
*[[1929年]](昭和5年)、「[[唐人お吉の歌]](黒船篇)」、「[[この太陽]]」をリリース。次々とヒットを飛ばす。