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[[画像:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|西暦1895年に調印された[[下関条約]]。右頁に書かれている締結日は、既に[[グレゴリオ暦]]を導入していた[[日本]]の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対して、時憲暦であった[[清]]の日付は「光緒二十一年三月二十八日」となっている。]]
'''時憲暦'''(じけんれき、[[満州語]]: {{mongol|ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ<br>ᠶᠠᠷᡤᡞᠶᠠᠨ<br>ᠲᠣᠨ}}、[[転写:forgon (言語学)|転写]]: forgon i yargiyan ton)[[中国暦]]の一つで、公式な暦法ものとしては[[中国]]で最後に使われた[[太陰太陽暦]]の[[暦法]]である。西洋[[天文学]]の成果を取り入れ、太陰太陽暦では初めて[[定気法]]が採用された。
 
== 解説 ==
時憲暦は、[[ドイツ]]・[[ケルン]]の出身の[[キリスト教]][[宣教師]][[アダム・シャール]](湯若望)によって編纂されたものである。[[明]]朝最後の皇帝となる[[崇禎帝]]から、当時使用されていた[[大統暦]]よりももっと正確な[[]]を作るようにとの命を受け、徐光啓らの協力を得て「'''崇禎暦'''(すうていれき)を作成した。しかし、[[1644年]]3月に[[李自成]]が[[北京]]を占領し、崇禎帝は自殺、明は滅亡した。直後に李自成軍を破って北京を占領した[[清]]は天文学に明るいシャールを重用し、崇禎暦は1644年10月'''時憲暦'''」として全国に公布された。シャールは[[1646年]]に正式に国立天文台所長に任命されている
 
後に、[[乾隆帝]]の諱名が弘暦であったため、中国では「暦」の字の使用を避けて'''時憲書'''(じけいしょ、満州語: {{mongol|ᡝᠷᡞᠨ<br>ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ<br>ᠲᠣᠨ ᡳ<br>ᠪᡞᠳᡥᡝ}}、転写:erin: erin forgon i ton i bithe)と呼ぶようになった。
 
中国ではにおいて[[1912年]]の[[中華民国]]建国(建国と同時に[[グレゴリオ暦]]を採用)・同年のおよび清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。その後さまざまな変転があったが、2014年現在のところ(2016年時点)でも[[春節]]の日取りが旧暦をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形なっている。
 
==関連項目==