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=== プロ入り後 ===
;{{by|2011年}}
:開幕オープン戦の時期に斎藤の投球を観戦し、その試合に{{要出典範囲|date=2014年9月|テレビ番組の企画で}}斎藤と対談した[[野村克也]]は斎藤の低めへのコントロールの秀逸さを褒め、「よい配球をすれば毎年10勝以上できるよ」と評価した。また野村は斎藤の礼儀正しさと精神力に感心し「大人しいようで、きちんというべきところでは自己主張している。骨があるピッチャーだ。今日から佑ちゃんのファンになったよ」とも発言していた。ただしこの対談で野村は「マー君は速球派になるか技巧派になるか悩んで成績を落としたことがある。どちらを目指すにしても、速球派・技巧派をきちんと定義して取り組むように」ともアドバイスをしている。4月17日、札幌ドームの千葉ロッテマリーンズ戦に先発でプロ初登板し、5回4失点([[自責点]]1)で初勝利。同期入団のルーキーの中で初勝利一番乗りとなった。投球について投手コーチの[[吉井理人]]から変化球が多い事を問題視され、直球の割合を増やす事を課題とされた。5月8日の福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)に先発で1回を3者凡退に抑えたが、左脇腹の違和感を訴えて降板。左内腹斜筋の筋挫傷で全治2~3週間と診断され、[[出場選手登録]]抹消となった。6月29日に一軍復帰。7月22日からの[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では2試合の登板を無失点に抑え、スカイアクティブテクノロジー賞を受賞。シーズンでは故障もありながらローテーションの5番手に加わり6勝6敗防御率2.69とまずまずの成績を挙げた一方で、投球イニングの少なさ(QS率は42.1%)や被打率の高さ、[[WHIP]]は1.47と課題残した。当時日本ハムの監督だった[[梨田昌孝]]は、この年亡くなった[[西本幸雄]]からシーズン前に斎藤の投球フォームについて「あいつの投げ方はあかん。左足が突っ立っとる。右腕が棒のようにかかっとるやないか。[[能見篤史]]のように、腕をしならせて投げるよう、指導せえ」と言われていたことを11月29日に行われた西本の告別式で明かした<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/30/kiji/K20111130002136050.html 「腕をしならせて投げろ」西本さん 斎藤に遺言あった]サンケイスポーツ(2011年11月30日)</ref>。[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では登板機会が無かった。
 
;{{by|2012年}}
:3月19日、プロ入り2年目で自身初[[開幕投手]]に指名され、3月30日の開幕戦(札幌ドム、埼玉西武ライオン戦)にて9回1失点で初の完投勝利を挙げた。プロ野球の開幕戦で初完投勝利を記録したのは{{by|1962年}}の[[柿本実]]([[中日ドラゴズ]])以来50年振り。パ・リーグで{{by|1950年}}の[[榎原好]]([[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]])以来62年振り2人目。4月20日の対[[オリックス・バファローズ]]戦には初完封勝利を挙げた。6月6日の対[[広島東洋カープ]]戦(札幌ドーム)で自身の誕生日をバースデー勝利で飾るも、6戦連続で勝ち星から遠ざかるなど成績不振に陥り、7月30日に再調整のため出場選手登録抹消となった。若手主体の[[フューチャーズ]]や社会人[[JX-ENEOS野球部]]に打ち込まれるなど、2軍でも7試合に先発し1勝5敗、防御率5.05、WHIP1.56と結果を残せなかったが、9月29日に2ヶ月ぶりに1軍へ復帰。1試合中継ぎ登板した後、10月5日の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦に先発するも、4回2/3を6失点と打ち込まれ8敗目を喫し、翌日に登録を抹消されレギュラーシーズンを終えた。シーズン通算で被打率.300、被出塁率.374、QS率50%、失点率5.19という内容に終わり、[[RSAA (野球)|RSAA]]は-20.74と、規定投球回数未満を含む12球団の全投手の中でワーストであった。[[2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では登板機会は無く、[[読売ジャイアンツ]]との[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第5戦の8回表から6点ビハインドの状況で[[敗戦処理]]として自身初のポストシーズン登板を果たし、プロ入り後の自己最速タイとなる147km/hを記録したが、[[鈴木尚広]]と[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]にタイムリーを浴びるなど2回2失点(自責2)という結果に終わった<ref name="kph147">[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121102-1041097.html 【日本ハム】佑初S2失点「悔しいです」]日刊スポーツ、2012年11月2日</ref>。シーズンを通して投球フォームが定まらず、本人は結果と調子の感覚が一致しなかったという<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2012/11/08/post_192/ 【プロ野球】斎藤佑樹「野球が嫌いになりそうな時期もあった」]Web Sportiva、2012年11月8日</ref>。オフの11月6日に、「[[侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」]]」の日本代表が発表され<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/news20121106.html 侍ジャパンマッチ2012 日本代表メンバー] NPB公式サイト (2012年11月6日) 2015年4月14日閲覧</ref>代表入りした<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/2012fal_roster_japan.html 日本代表メンバー] NPB公式サイト (2012年11月6日) 2015年4月14日閲覧</ref>。シーズン終了後の[[契約更改]]では、500万円増の3500万円で更改した。この年の夏頃から肩に違和感を抱きはじめていたが、フォーム調整のために投げ込みを続けた結果痛みが悪化し、11月の終わりに右肩の関節唇損傷と診断された<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2013/04/17/post_222/index.php 従来のフォームとの決別。昨年の開幕投手、斎藤佑樹が語る「今」]</ref>。
 
;{{by|2013年}}
:前年の右肩痛の影響もあり2軍スタート。二軍で9失点を喫した後に復帰を果たすものの、5回もたずKOされ、1軍での登板はその1試合のみに留まり、0勝1敗、防御率13.50、二軍での成績も1勝3敗、防御率8.61に終わった。秋の[[フェニックス・リーグ]]でも中盤に打ち込まれる場面が目立ち、1勝2敗、防御率7.18でシーズンを終了した<ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131113-00000303-sportiva-base 斎藤佑樹の覚悟「何が待っていたとしても、それも僕の人生」] webスポルティーバ、2013年11月13日.2013年11月17日閲覧。</ref>。
 
;{{by|2014年}}
:[[7月31日]]の対ロッテ戦(QVC)で先発し、5回まで毎回走者を出しながらも、6イニングを6安打、ソロ本塁打による1失点で抑え、2012年6月6日の対広島戦以来785日ぶりに勝利投手となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/31/kiji/K20140731008666250.html 斎藤佑、785日ぶり白星!走者出しても粘りの投球で6回1失点]スポーツニッポン2014年7月31日配信</ref>。2軍では17試合に登板し、1勝7敗、防御率4.73の成績に終わった。
:1軍では2勝1敗、防御率4.85、2軍では17試合に登板し、1勝7敗、防御率4.73の成績に終わった。
 
;{{by|2015年}}
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== 選手としての特徴 ==
[[ファイル:SaitoYuki01.jpg|thumb|240px|斎藤の投球フォーム(2006年)]]
[[オーバースロー]]から投げる平均球速約139km/h<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2012|title=2012プロ野球オール写真選手名鑑|publisher=日本スポーツ企画出版社|pages=24頁|id=ISBN 978-4-905411-04-8}}</ref>、プロでの最速147km/h<ref name="kph147"/>の[[速球|ストレート]]と[[スライダー (球種)|スライダー]]<ref name="ama200923">『アマチュア野球』第23号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、32頁。</ref>、[[フォークボール]]、[[速球#ツーシーム・ファストボール|ツーシーム]]、[[カット・ファスト・ボール|カットボール]]を軸とし、稀に[[チェンジアップ]]<ref name="ama200923"></ref>や[[カーブ (球種)|カーブ]]を混ぜる投球を見せる<ref name="ama201029">『アマチュア野球』第29号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、4-6頁。</ref>。打球がゴロになりやすい投球で、2012年には全打球の半分以上をゴロにしている<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2013|title=野球太郎 No.004 プロ野球12球団選手名鑑|publisher=廣済堂出版|pages=97頁|id=ISBN 978-4-331-80228-1}}</ref>。「アマチュア時代の経験が感覚を研ぎ澄ませてくれた」と言い<ref name="df51">『週刊プロ野球データファイル』2012年54号、ベースボール・マガジン社、雑誌27204-12/26、5-6頁。</ref>、ボールをリリースする直前に「打たれる」と思った瞬間、身体が反射的に反応してボール球を投げる「危険察知能力」を強みとし<ref name="df51"></ref>、2012年は得点圏での被打率が低かった<ref name="df51"></ref>。2012年には、ストレートの空振り率が2パーセントと一軍では最低レベルの数値を記録した球威不足のため、初球のストライク率が低いボール先行の投球となり<ref>{{Cite book|和書|author=|year=2013|title=2013 プロ野球オール写真選手名鑑|publisher=日本スポーツ企画出版社|pages=108頁|id=ISBN 978-4-905411-11-6}}</ref>、2014年まで通算与四球率3.54と制球に苦しんでいる。
 
大学時代は自己最速150km/h<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010university/saito_yuki/KFullNormal20100912170.html|title=斎藤 自己最速150キロも4失点でだんまり|publisher=スポニチ Sponichi Annex|date=2010-09-12|accessdate=2015-02-13}}</ref>を記録し、投球の半分近くを低めに集める制球力を武器としてきてきた<ref name="df51"></ref>。大きな注目を集めるきっかけとなった高校時代の投球は、当時の日本プロ野球を代表する投手だった[[松坂大輔]]から「考えて投げているのが分かる。プロでも、あそこまでイメージして投げている投手はなかなかいないんじゃないですか」と評され<ref>[http://highschool.nikkansports.com/2006/koshien/news/p-hb-tp1-20060823-0002.html 西武松坂、佑ちゃん「プロですぐ通用」]日刊スポーツ、2006年8月23日。</ref>、同じく当時の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]を代表する左腕投手だった[[ヨハン・サンタナ]]からは「変化球がいいね。打者へのアプローチが違う。すごい! いつの日かこっちでプレーするのを見たいねえ」と評された<ref>[http://www5.nikkansports.com/baseball/mlb/tetsuya/29456.html 「ベネズエラのハンカチ王子」][[鉄矢多美子]]『Field of Dreams』日刊スポーツ(2007年01月18日)</ref>。上述の高校3年夏の甲子園の決勝戦だけでなく、同年の[[全国高等学校野球選手権西東京大会|西東京予選]]の決勝戦でも221球投げており、最終イニングとなった11回表には149km/hを記録した。また、大学4年間で故障や病気で離脱したことはなく、練習を休んだこともなかった<ref name="ama201029"></ref>。高校2年までは被安打や味方の[[失策]]からマウンド上で感情を表に出すこともあったが、早稲田実業野球部のOBから「投手がマウンド上で怒って、何か得をするのか?」と言われ、以来あまり表情を変えないようにしている<ref name="Yume3">{{Cite news|first=|last=|author=|coauthors=|url=http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/101211/bbl1012111707004-n1.htm|title=「ハンカチ王子」からの脱却 人気で熱さ封印も「スマートにやりすぎた」|work=|newspaper=産経新聞|publisher=産経新聞|pages=|page=|date=2010-12-11|accessdate=2010-12-24|language=}}</ref>。また、高校2年春の甲子園で打ち込まれたことをきっかけに、早稲田大学の先輩である佐竹功年を参考に膝を折り曲げて腰の位置を強制的に落とす投球フォームに改造したことで球質が向上した<ref name="Yume2"/>。フォーム改造に一役買ったのは[[宮本賢]](当時早稲田大学野球部主将・後にプロでチームメイトになった)の助言であるという<ref>[[和泉実]](早稲田実業学校野球部監督)の手記による</ref>。
 
打者としては、高校3年時の甲子園大会で六番打者を務め、甲子園通算2本塁打を記録。大学時代では通算1本塁打を記録。
 
== 人物 ==
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家族は父・母・兄・祖母がいる。父はかつて[[群馬県立前橋工業高等学校|群馬県立前橋工業高校]]や[[富士重工業硬式野球部]]に所属し、野球の練習に厳しかったという。3歳違いの兄は[[群馬県立桐生高等学校|群馬県立桐生高校]]の一番打者として県大会{{いつ|date=2015年9月}}ベスト4に進出している。音楽ではB’zの大ファンであり、オフにはライブにも足を運ぶ。
 
早実入学当初、群馬県太田市の実家から約2時間かけて通学していたが、後に東京在住だった兄とアパートで二人暮らしを始めた。高校卒業まで兄から食事など生活全般の面倒を見られていた。大学では入学時から野球部の安部寮に居住。
趣味は[[釣り]]。実家に帰った時には渓流釣りを楽しむ。好きな武将は[[織田信長]]であり<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/02/26/kiji/K20120226002710170.html 斎藤佑 目指すは織田信長「ここというところで勝てるようになりたい」]スポニチ、2012年2月26日</ref>、好きなアイドルは[[乃木坂46]]の[[白石麻衣]]である<ref>{{Cite news|title=日本ハム・斎藤佑樹の「推しメン」が乃木坂46白石麻衣であることが判明、ネット上で話題に|newspaper=AOL News|date=2015-02-16|url=http://news.aol.jp/2015/02/15/saitohyuki/|accessdate=2015-02-16|publisher=AOLオンライン・ジャパン}}</ref>。父親の所属や出身地(富士重工のお膝元)もあって[[スバル]]の車を「ベンツよりポルシェより、いつかスバル車に乗りたい」というほど愛好している。
 
趣味は[[釣り]]。実家に帰った時には渓流釣りを楽しむ。好きな武将は[[織田信長]]であり<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/02/26/kiji/K20120226002710170.html 斎藤佑 目指すは織田信長「ここというところで勝てるようになりたい」]スポニチ、2012年2月26日</ref>、好きなアイドルは[[乃木坂46]]の[[白石麻衣]]である<ref>{{Cite news|title=日本ハム・斎藤佑樹の「推しメン」が乃木坂46白石麻衣であることが判明、ネット上で話題に|newspaper=AOL News|date=2015-02-16|url=http://news.aol.jp/2015/02/15/saitohyuki/|accessdate=2015-02-16|publisher=AOLオンライン・ジャパン}}</ref>。父親の所属や出身地(富士重工のお膝元)もあって[[スバル]]の車を「ベンツよりポルシェより、いつかスバル車に乗りたい」というほど愛好している、2013年2月にはフリーペーパー『[[R25 (雑誌)|R25]]』誌上のスバルの広告に登場した<ref>http://r25.yahoo.co.jp/static/subaru/interview.html</ref>。2014年には[[北海道スバル]]のCMに出演を果たした。愛車は[[スバル・レガシィアウトバック]]と[[スバル・BRZ]]
 
目標とする投手には富士重工業硬式野球部に在籍した[[阿部次男]]を挙げている<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/amateur/news/f-bb-tp3-20100330-612227.html 佑ちゃんが目標の先輩と対戦]日刊スポーツ(2010年3月30日)</ref>。憧れの投手には2013年から日本ハムの投手コーチに就任した[[黒木知宏]]を挙げ、中学時代には黒木の現役時代の背番号「54」の入ったハンカチを使用していたという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/11/24/kiji/K20121124004621430.html 斎藤 憧れ黒木コーチに学ぶ「気合が入った魂の投球ですよね」]スポニチ、2013年11月24日</ref>。
 
ファンやマスコミからの愛称のひとつである「'''佑ちゃん'''」は、日米親善高校野球の際に監督を務めた[[和泉実]]が選手同士の交流を図るため互いに名字で呼ぶことを禁止したことから、駒大苫小牧高校の[[田中将大]]と「佑ちゃん」「マー君」と呼び合っている事が本人達の口から語られたのがきっかけとなった。プロ入り後、田中については、「いつか追いついて、追い越したいと思っている。勝負は今だけじゃないんだって、心のどこかで思っている。24歳、25歳の現時点では、ピッチャーとしてマー君の方が上です。でも、30歳になったら、40歳になったらどうかということは誰にもわからない。そのための大学4年間だったと思っています。そこには僕、けっこう自信を持ってるんです」と語っている<ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131113-00000303-sportiva-base 斎藤佑樹の覚悟「何が待っていたとしても、それも僕の人生」] webスポルティーバ、2013年11月13日.2013年11月17日閲覧。</ref>。
 
== メディアの報道姿勢 ==
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この年の春季リーグ戦は斎藤の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めて[[チケットぴあ]]での入場券前売りが実施された。[[4月14日]]の開幕戦は前年春の4倍となる約18,000人が詰めかけ、[[4月29日]]に先発した[[法政大学]]との第2戦では約28,000人を動員し、早慶戦以外では{{by|1992年}}以来の20,000人越えとなった。この日の夜に同じ明治神宮野球場で行われた[[東京ヤクルトスワローズ]]対[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦の観客動員は29,654人で、東京六大学野球の観客数がプロ野球の試合に肉迫する結果となった。この試合で従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。早稲田大学の優勝が決まった[[6月3日]]の早慶戦の第2戦では約36,000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の[[早慶戦]]以来10年ぶり。この観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、[[北海道日本ハムファイターズ]]対[[阪神タイガース]]([[札幌ドーム]])に次ぐ動員数となった。この試合の平均視聴率はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録。
 
この春季リーグ戦の早稲田大学戦に訪れた観客の総数は11試合で約22万8000人、1試合平均2万727人集まり、前年度に比べ3倍近くに膨れあがった。2008年から史上初めて東京六大学野球の[[カレンダー]]と[[ベースボールカード]]が発売されることとなった。
 
[[2009年]]、『[[速報!スポーツLIVE]]』([[テレビ朝日]])の初回放送([[11月8日]])のスタジオゲストとして[[大石達也 (野球)|大石達也]]と共に出演。自身初のスタジオ生出演で、代表に選ばれた「[[U-26 NPB選抜 対 大学日本代表]]」の試合に向けての意気込みを語るとともに、公の場で初めてプロ野球へ進む意志を表明した(「1年後プロに行きたいか」という質問に対し「○」の札を挙げた)。
 
[[2010年]]、斎藤が大学4年になり[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]が近づくにつれて、再び多くの注目を集めるようになる。[[10月28日]]に開催された同会議は[[TBSテレビ]]が全国ネットで生中継し、夕方の時間帯にもかかわらず平均視聴率14.4%を記録。この年のペナントレースの最高視聴率が14.3%([[4月24日]]の巨人対[[広島東洋カープ]]戦、NHK)で、それをも上回る視聴率となった。瞬間最高視聴率は斎藤の交渉権を引き当てた日本ハム球団社長(当時)の[[藤井純一]]のインタビュー中で17.2%。2007年の[[中田翔]]に続き斎藤を引き当てた藤井にあやかり、その後「GOD HANDグッズ」が発売された。
 
[[11月3日]]の早慶優勝決定戦は、明治神宮野球場の収容人数35,650人に対し立見席が用意され、チケット販売枚数が36,000枚になり20年ぶりに完売となった。これによりマスコミ関係者には東京六大学野球連盟から[[大入袋]]が配られた。NHK総合によるテレビ中継は平均視聴率12.1%、瞬間最高視聴率は16.2%を記録。勝利投手となりヒーローインタビューの場で「最後に一つだけ言わせてください」と切り出し、「'''いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です'''」と語った。この発言が話題を集め、その年の新語・流行語大賞の選考委員特別賞を受賞。2006年の「ハンカチ王子」に引き続き2度目の受賞で、これは野球界において史上初。[[11月4日]]の記者会見当日に、『[[ニュースウオッチ9]]』(NHK)、『[[報道ステーション]]』(テレビ朝日)、『[[NEWS ZERO]]』(日本テレビ放送網)、『[[NEWS23X]]』([[TBSテレビ]])、『[[すぽると!]]』([[フジテレビジョン]])(以上、出演順)に生中継で出演した。[[11月6日]]に放送された『[[S☆1]]』(TBSテレビ)に出演した当時早稲田大学野球部監督の[[應武篤良]]が、斎藤の入学時に熱狂的なファンの一部による盗撮や寮の部屋の覗きといった行動があったことを明かした。
 
[[12月9日]]の札幌ドームでの単独入団会見には、平日にもかかわらず約8,000人のファンが駆けつけた(2003年の新庄剛志の入団会見は約2,000人)。この模様は『[[情報ライブ ミヤネ屋]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])で全国ネット生中継され、北海道の民放5局とNHK、衛星放送の[[GAORA]]でも生中継された。新人選手の単独入団会見は球団史上初。
 
[[2011年]]、[[1月11日]]、[[千葉県]][[鎌ケ谷市]]の合宿所「[[勇翔寮]]」に入寮する際、約500人のファンや報道陣が集まり、その様子がワイドショーで生中継された。[[ファイターズスタジアム]]での自主トレの期間はスタジアムに連日約2,000人ものファンが押し寄せ、史上初めて観客席が開放された。さらに[[1月16日]]に行われた「新入団選手歓迎式典・交流会」ではスタジアム史上最高の約11,000人(前年は512人)のファンが集まり、上空には取材ヘリが8機飛ぶ中、入団記念グッズ(Tシャツ・フェイスタオル・ストラップ)が発売され販売開始約1時間で完売。球場のある鎌ケ谷市には大きな経済効果がもたらされ<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011011300881 「斎藤効果」に沸く鎌ケ谷=2軍改革の弾みに-プロ野球・日本ハム] 時事通信(2011年1月13日)</ref>、テレビ報道による同市のPRとしては約160億円の広告効果があった<ref>[http://journal.mycom.co.jp/news/2011/01/18/037/index.html 鎌ケ谷市のPR効果は160億円 佑ちゃんフィーバー放送は6日間で16時間53分] 毎日新聞(2011年1月18日)</ref>。[[2月1日]]から[[沖縄県]][[名護市]]で行われた春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]にも、[[那覇空港]]に1,000人以上が出迎え、キャンプ初日には400人以上の報道陣が集まり、その一挙手一投足が連日マスコミで報道された。このキャンプ期間中に名護市のキャンプ地を訪れた観客数は計27,150人と、前年の11,550人の2倍以上になった。
 
[[4月17日]]のプロ初登板・初先発試合(ロッテ戦、札幌ドーム)は、放送権利を元々[[北海道テレビ放送]]が持っていたことからキー局のテレビ朝日が当初放送予定だった番組を急遽中止しスタッフを派遣、「緊急生中継」として、斎藤の投球回を中心にローカル枠で放送した。デーゲームにもかかわらず、この試合の北海道地区における平均視聴率は29.4%、瞬間最高視聴率37.0%を記録。中継した北海道テレビのレギュラーシーズンの野球放送としては史上最高の視聴率を記録した。
 
[[9月10日]]の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦([[宮城球場|日本製紙クリネックススタジアム宮城]])では、2006年の夏の甲子園決勝以来となる[[田中将大]]との対決が実現し、チケットは前売りのみで完売。両投手とも完投し、4対1で楽天が勝利。斎藤はこの試合で初完投を記録。この試合は[[「ジョージア魂」賞]]年間大賞に選出された(受賞は田中将大)。
 
[[2012年]]、[[3月30日]]、自身初の[[開幕投手]]をプロ初完投勝利で飾った試合([[埼玉西武ライオンズ]]戦、札幌ドーム)の中継([[札幌テレビ放送]])において、平均視聴率31.6%を記録。それまでの最高記録だった2011年の斎藤がプロ初登板した試合中継(上記)の29.4%を上回り、北海道内の球団公式戦中継で最高記録を更新。瞬間最高視聴率は39.4%。
 
== 詳細情報 ==
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=== 背番号 ===
* '''18''' (2011年 - )
** '''11''' (2012年[[東日本大震災復興支援ベースボールマッチ]])
 
=== 登場曲 ===
* [[NYC (アイドルグループ)|NYC]] 『[[勇気100% (NYCの曲)|勇気100%]]』(2011年 - ) ※[[埼玉西武ライオンズ]]時代に同曲を登場曲として使っていた[[松坂健太]]の助言により決まったという。
* [[光永亮太]] 『[[Always (光永亮太の曲)|ALWAYS]]』 (2014年3月29日)
 
=== 代表歴 ===
* [[侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」]]
 
== 関連企業 ==