「萩野浩基」の版間の差分

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その後、新進党に移り、[[1996年]](平成8年)[[10月20日]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]で鞍替えし[[比例東北ブロック]]に単独立候補し当選した。
 
[[1997年]](平成9年)[[3月]]、[[オレンジ共済事件]]で新進党が公党の責任を果たしていないことを理由に離党届を提出。しかし、新進党は萩野が比例選出であることを理由に離党を認めず、萩野に議員辞職するよう要求、両者の対立が続いた<ref>{{要出典範囲|[http://www1.ocn.ne.jp/~s-shiga/verdad05_97.htm] |date=2016年3月1日}}</ref>。ところが、同年[[12月]]に新進党が解党したため、萩野は離党することなく自由の身となり、自民党へ入党、[[平成研究会|小渕派]](現[[平成研究会|額賀派]])に所属した。その後、[[2000年]](平成12年)と[[2003年]](平成15年)の総選挙は自民党公認で比例東北ブロックに単独立候補し当選した。
 
しかし、[[2005年]](平成17年)[[9月11日]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]では、比例代表での単独立候補は2回までとする自民党の規定に抵触し、特例での立候補を党本部に求めるも公認は降りず、結局立候補を断念した。同年の[[宮城県]][[知事]]選で自民党推薦候補に推す声もあったが、萩野自身が辞退した。