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回鶻可汗国が衰えると、阿熱はすぐさま可汗(カガン)を称した。その母は{{仮リンク|突騎施|en|Turgesh}}(テュルギシュ)の娘で母可敦(皇太后)となる。妻は葛禄葉護(カルルク・ヤブグ:カルルクの君主)の娘で可敦(カトゥン:皇后)となる。
 
[[開成 (唐)|開成]]5年([[840年]])頃、渠長(きょちょう:将軍)の句録莫賀(句録末賀、キュリュグ・バガ)は、北の[[黠戛斯]](キルギス、Qïrqïz)軍10万騎を招き寄せて回鶻城([[オルド・バリク]]か?)を破り、[[コウソウ特勤|㕎&#x99ba;可汗]]<ref>「㕎」は「厂+盍」と書く。</ref>と掘羅勿を殺してその牙帳<ref>帳幕([[ゲル (家屋)|ゲル]])のこと。</ref>を焼き払った。これによって回鶻可汗国は崩壊し、国人たちは各特勤を奉じて各地に散らばった。そのうち、可汗庭(かがんてい:可汗の牙帳)近くの13部は、[[烏介特勤]](ウゲ・テギン、Ügä Tägin)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 途中、烏介可汗らは[[太和公主]]を[[唐]]まで護送する黠戛斯の達干(タルカン、Tarqan)<ref>達干(タルカン、Tarqan)とは、[[テュルク系]][[遊牧国家]]における官名。</ref>らと遭遇した。烏介可汗はそれを見つけるなり達干らを殺し、太和公主を奉じて代わりに唐の天徳界まで護送してやった。
 
[[会昌]]年間([[841年]] - [[846年]])、阿熱は使者を見殺したため、しばらく入朝せずにいたが、ふたたび注吾合素<ref>「注吾」が姓で、「合素」が名である。「合素」の「合」は「alp:勇猛な」、「素」は「sol:左」を意味するテュルク語である。すなわち、「合素」とは「勇猛で左射を善くする者」の意である。「注吾」の意味は不明。《『騎馬民族史2』p456-457,注176》</ref>を遣わして上書言状した。[[武宗 (唐)|武宗]](在位:[[840年]] - [[846年]])は注吾合素らが3年かけて京師にたどりついたことに大いに悦んだ。この頃、烏介可汗の余衆が[[室韋]](黒車子)に亡命していたので、阿熱は回鶻の残党討伐を願い出た。武宗は右散騎常侍の[[李拭]]を黠戛斯に遣わし、君長を冊立して'''宗英雄武誠明可汗'''とした。しかし、使者が到着しないうちに武宗が[[崩御]]してしまう。代わって[[宣宗 (唐)|宣宗]](在位:[[846年]] - [[859年]])が即位すると、[[大中]]元年([[847年]])、武宗の卒詔で鴻臚卿の[[李業]]に節を持たせて黠戛斯阿熱を冊立して'''英武誠明可汗'''とした。
 
大中2年([[848年]])春、回鶻の[[遏捻可汗]]のもとには名王貴臣の500人しかいなくなったため、彼らは[[室韋]]に依ることにした。しかし、[[張仲武]]が遏捻可汗らを捕えるべく黠戛斯などを室韋に向かわせたため、遏捻可汗は懼れて妻の葛禄(カルルク)と子の特勤毒斯ら9騎だけを連れて夜に西へ逃亡し、行方をくらました。室韋は回鶻の余衆を分けて七分とし、七姓室韋は各一分を占領した。そこへ黠戛斯宰相の阿播が領する諸蕃兵7万が遏捻可汗および諸回鶻人を捕えるべく室韋に攻め込んできた。室韋は阿播の軍に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けた。
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===結婚・葬式===
結婚は新郎側が羊と馬を新婦側に収めて嫁を招く。富裕者ではその数が100~1100〜1,000にもなる。
 
葬式では歴代遊牧国家のように&#x5253;面(顔にナイフを入れること)をせず、三回死体を囲んで泣く。死体は火葬され、その骨を収めて墓に入れる。冬は室内に納め、木の皮を覆いとした。
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===政治体制===
堅昆時代、[[鉄勒]]の[[薛延陀]]部に隷属していたため、延陀が頡利発(イルテベル)1人をもって監国した。堅昆の酋長は3人おり、訖悉輩,居沙波輩,阿米輩<ref>「輩」は王侯,酋長を意味する官称号「bai」にあたる。《『騎馬民族史2』p454注156》</ref>の3酋長で国を共治していた。酋長は俟利発(イルテベル)の称号を帯び、唐によって堅昆都督府が置かれると、堅昆都督の職も担当した。
 
黠戛斯の君主は“阿熱”(あぜつ)<ref>「阿熱」の唐音は「a-net」に近いとみられ、テュルク語の「inäl」の音訳と推定する説がある。13世紀初頭のキルギズ部長の一人にUrūs-inālという名の者があり、このinālと比較するにたる。《『騎馬民族史2』p451注156》</ref>といい、その氏族名も阿熱という。阿熱は青山に牙(本営)を置き、周りには垣をし、「密的支」と呼ばれる毛氈を延べ連ねたものを帳幕とし、他の首領は小さい帳幕に住んだ<ref>原文で「…号密的支它首領居小帳…」とある個所において、[[白鳥庫吉]]は「密的支它」を一つの語と見做し、「密的」を[[サモエード語]]の「muat,mat:帳の意」に、「支它」を[[オスチャーク語]]の「xot,kât:家、帳の意」にあてている。なお、阿熱の本営が置かれたという「青山」は、あるいは[[タンヌ・ウラ嶺]]の北峯たる[[ハン・テングリ|ハン・テングリ山]]にあたると推定されている。《『騎馬民族史2』p451-452注157》</ref>。阿熱はおよそ諸部より兵を徴発した。また、諸部の役属者は悉く行って、貂鼠,青鼠を賦とした。官職は宰相(7人),都督(3人),職使(10人),長史(15人),将軍(定員なし),達干(定員なし)の六等がある。
 
[[回鶻|回鶻可汗国]]が衰退すると、黠戛斯の阿熱は可汗(カガン)号を採用し、妻の称号も可敦(カトゥン)とした。
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===人種===
『新唐書』回鶻伝下に「人は皆背が高く、赤い髪、析面、緑の瞳をしており、黒髮は不祥とした。黒瞳の者は必ず李陵の苗裔であるという」とあることから、黠戛斯人は西方系の人種([[コーカソイド]])であり、東方系([[モンゴロイド]])ではなかったことがわかる。中には黒髪・黒瞳の人種(モンゴロイド)もいたが、これはかつて[[匈奴]]によって[[右賢王]]に封じられた[[前漢|漢]]の降将[[李陵]]の後裔だとされていた。また、[[敦煌]]出土の『リオ・チベット語文書1283番』の中でも、キルギス族は「目は水晶の瞳、赤い髪」と記されている。
 
===人口===
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*北海([[バイカル湖]])の南の地域、すなわち[[匈奴]]の北には渾庾(渾窳),屈射,[[丁零]](丁令),鬲昆(隔昆),薪犁(新梨)がいる。<ref>『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝</ref>
*[[郅支単于]]は堅昆を破ると、東の単于廷から7千里、南の[[車師]]から5千里の地点に西匈奴を建国した<ref>『漢書』匈奴伝</ref>。
*呼得国<ref>「烏掲」,「呼偈」とも記され、のちの[[テュルク系民族]][[オグズ]](Oγuz)の祖先とされる。《『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18》</ref>は葱嶺(パミール高原)の北、烏孫の西北、康居の東北に在り。堅昆国は康居の西北に在り。丁令国は康居の北に在り。これら三国は、堅昆が中央で、俱に匈奴の単于庭がある安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里に位置する。<ref>『魏略』西戎伝</ref>
*阿輔水,剣水の間にて契骨と号す<ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>。
*黠戛斯の地は[[伊吾]]の西、[[焉耆]]の北、白山の旁ら<ref>この地を黠戛斯の住地とするのは不正確。黠戛斯の本土はイェニセイ上流域である。《『騎馬民族史2』p449注147》</ref>。[[回鶻]]牙までは橐它で行くこと40日。天徳を出て200里で西受降城に至り、北は300里で鵜泉に至り、鵜泉の西北は回鶻牙まで1500里だが、東西に二道あり、泉の北は東道なり。回鶻牙の北600里には仙娥河([[セレンガ川]])があり、河の東北には雪山があってその地には水泉が多い。青山の東には剣河という川があり、川は悉く東北へ流れ、その国を経て合流し、北の海へ入る。<ref>『新唐書』列傳第一百四十二下 回鶻下</ref>
 
以上のようにバイカル湖の南から[[ジュンガル盆地]]、[[カザフ草原]]にいたる広大な範囲に分布していることがわかる。また、[[ラシード・ウッディーン]]の『[[集史]]』「テュルク・モンゴル諸民族誌」では次のように記されている。
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*[http://ethnos.exblog.jp/5206429/ テュルク&モンゴル キルギズの起源]
*[http://ethnos.exblog.jp/5228236/ テュルク&モンゴル キルギスの歴史]
 
 
{{カザフスタン関連の項目}}