「正親町天皇」の版間の差分

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上記の説とは違い、正親町天皇が譲位を希望して信長がこれに反対していたという説もある。朝廷の内部資料([[清涼殿]]に仕える女官の日誌)である『[[お湯殿の上の日記]]』によると、天正9年([[1581年]])信長が京都で大規模な[[京都御馬揃え|馬揃え]]を行った直後の[[3月9日_(旧暦)|3月9日]]に、正親町天皇から退位の意向が信長に伝えられた。同年[[3月24日_(旧暦)|3月24日]]に譲位がいったん朝議で決定されて、この事を「めでたいめでたい」とまで記されている。
 
それにもかかわらず、『[[兼見卿記]]』[[4月1日_(旧暦)|4月1日]]の条に、一転中止になったと記されている。これは前述のように当時仙洞御所が存在しておらず無く、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際後年の正親町天皇の譲位にいては、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。
 
天正元年の時点で、正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、誠仁親王は22歳(同30歳)である。天正9年の時点では、天皇の病気の記事が頻出するようになる。つまり、譲位を行う好機にさしかかっていた。それにもかかわらず、信長が譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、むしろ譲位に消極的だったからではないかという。