「ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)」の版間の差分

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ウラジーミルは幼少期を[[モスクワ]]で厳しい監視を受けながら育ち、1542年に亡父の分領であった[[スターリツァ]]と[[ヴェレヤ]]を相続した。彼はそこで最初の結婚をし、1553年にツァーリが深刻な病に倒れるまで平和な生活を送っていた。イヴァン4世が危篤に陥ると、[[ボヤーレ|大貴族]]の多くはイヴァンの生後1歳の息子ドミトリーに忠誠を誓うことを拒み、代わりに従弟ウラジーミルを後継者に立てようとした。ところがツァーリは驚異的な恢復を見せ、大貴族達の裏切りを知って彼らへの態度や扱いを豹変させた。イヴァンはさらにウラジーミルをモスクワに召喚し、少数の従者と共にモスクワに居を移してツァーリに仕える大貴族とは一切の連絡を断つことを誓わせた。またもしイヴァンが死んだ場合は、イヴァンの幼い息子が後継者となりウラジーミルが[[摂政]]となるという取り決めもなされた。
 
ウラジーミルの母親を[[修道院]]に入れ、彼に仕える大貴族たちを追放すると、イヴァンはやっとウラジーミルへの態度を和らげた。1555年4月、ウラジーミルはツァーリの許しを得て公女エウドキヤ・ロマノヴナ・オドエフスカヤと再婚した。ところが[[オプリーチニナ]]体制が始まると、イヴァンの従弟に対する疑念も再燃し始めた。1564年、[[オプリーチニキ]]はモスクワのウラジーミル邸を焼き払い、その所領の大部分がオプリーチニナ領(ツァーリ直轄領)に組み込まれて没収された。1569年、イヴァン4世に対する反逆を企てた罪により、ウラジーミルは子供たちと共に[[アレクサンドロフ (都市)|アレクサンドロフ]]の離宮で服毒による[[賜死|自殺を強要]]された。彼の妻と母は[[ヴォログダ]]郊外の[[ゴリツキー修道院]]に追放され、数年後に[[シェクスナ川]]に沈められた。長期的に見れば、ウラジーミルその子供達の殺害は[[リューリク朝]]の断絶を早める結果に終わり、[[動乱時代]]と呼ばれる王朝の危機を引き起こすことになった。唯一生き残ったウラジーミルの娘[[マリヤ・スターリツカヤ|マリヤ]]は1573年[[リヴォニア王国|リヴォニア王]][[マグヌス (リヴォニア王)|マグヌス]]と結婚し、夫の死後は[[ボリス・ゴドゥノフ]]によって女子修道院に入れられている。
 
== 外部リンク ==