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{{Otheruses||テレビ番組|猿飛佐助 (1980年のテレビ番組)}}
[[画像:Sarutobi-Sasuke statue Imabari.jpg|thumbnail|240px|今治駅前の猿飛佐助像]]
'''猿飛 佐助'''(さるとび さすけ)は、[[講談]]や[[立川文庫]]の[[小説]]などに登場する架空の[[日本忍者]]の代表的。ただし、モデルとった人物([[忍者猿飛仁助]]の一人<ref>『清正実記』</ref>や[[上月佐助]]など)が実在したとする説もある([[#架空説と実在説]])
 
== 概要生涯 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]〜[[江戸時代]]初期に活躍した武将・[[真田信繁]](幸村)の家臣として知られるが、同時代・近時代の史料からはその名は見出せない。江戸時代中期の[[軍記物]]からその名が現れ始め、[[明治]]・[[大正]]時代には[[講談]]でキャラクターが創作されて有名になった。[[講談]]や[[立川文庫]]では[[真田十勇士]]の一人とされた。また別にモデルとなった人物([[猿飛仁助]]<ref>『清正実記』</ref>や[[上月佐助]]など)は実在したとする説もある([[#架空説と実在説]])。
立川文庫や松本金華堂や立川文庫などによると、鷲尾佐太夫は森武蔵守の家臣であった。小牧・長久手の戦いで森長可が鉄砲により討ち死にすると鷲尾佐太夫は信濃の[[鳥居峠 (長野県・群馬県)|鳥居峠]]の麓に住んで郷士となり、姉の小夜と弟の佐助の二人の子をなす。<ref>真田家三勇士</ref>以上が初期設定である。{{要出典|二代目の本名は井辺武助である|date=2016年3月}}{{要出典|[[戸隠山|戸隠の山]]の中|date=2016年3月}}で猿と遊んでいるところ、摂州花隈の城主戸沢山城守の父の[[戸澤白雲斎]]に見出されてその弟子となる。[[甲賀流]]の忍者だが、[[甲賀]]の里ではなく、[[戸澤白雲斎]]とは信濃の[[鳥居峠 (長野県・群馬県)|鳥居峠]]{{要出典|の近くの角間渓谷(真田忍者の修行場だったとの伝説がある)|date=2016年3月}}3年間の間、修行をしていた。
 
== 概要 ==
松本金華堂や立川文庫などによると、鷲尾佐太夫は森武蔵守の家臣であった。小牧・長久手の戦いで森長可が鉄砲により討ち死にすると鷲尾佐太夫は信濃の[[鳥居峠 (長野県・群馬県)|鳥居峠]]の麓に住んで郷士となり、姉の小夜と弟の佐助の二人の子をなす。<ref>真田家三勇士</ref>以上が初期設定である。{{要出典|二代目の本名は井辺武助である|date=2016年3月}}。{{要出典|[[戸隠山|戸隠の山]]の中|date=2016年3月}}で猿と遊んでいるところ、摂州花隈の城主戸沢山城守の父の戸澤白雲斎に見出されてその弟子となる。[[甲賀流]]の忍者だが、[[甲賀]]の里ではなく、戸澤白雲斎とは信濃の[[鳥居峠 (長野県・群馬県)|鳥居峠]]{{要出典|の近くの角間渓谷(真田忍者の修行場だったとの伝説がある)|date=2016年3月}}で3年間の間、修行をしていた。
 
[[真田信繁|真田幸村]]に仕え、[[真田十勇士]]の第一として登場。[[真田信繁|真田幸村]]に猿飛佐助幸吉(さるとび さすけ ゆきよし)と名付けられる。同じ十勇士で[[伊賀流|伊賀]]忍者の[[真田十勇士#霧隠才蔵|霧隠才蔵]]は、ライバルでもある。[[大坂の役|大坂夏の陣]]で徳川方に敗れた後、幸村と共に[[薩摩藩|薩摩]]に落ちのびたという。
 
== 備考 ==
立川文庫版の原作者が[[愛媛県]][[今治市]]出身の[[山田阿鉄]]一族であることから、[[四国旅客鉄道|JR]][[今治駅]]前に猿飛佐助の銅像が立っている。
 
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[[司馬遼太郎]]は、小説『[[風神の門]]』において「[[明治]]末期~[[大正]]年間に立川文庫の作者達が創った」とする説を紹介し、「猿飛佐助の命名は、[[玉秀斎]]を中心とした作家グループ達が行った」との説を補筆している。それを司馬は「半ば真実かもしれない」と理解を示した上で、「すでに江戸時代には大阪の庶民の間で語り継がれていた」とする[[岡本良一]]の異説を紹介し、『[[淡海故録]]』および『[[茗渓事蹟]]』を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」と実在説を支持している(三雲佐助賢春は[[六角氏]]の重臣である[[三雲成持]]の甥にあたる)。
 
審訓清正実記』には「[[豊臣秀吉|木下藤吉郎(豊臣秀吉)]][[金ヶ崎の戦い]]の退き口で殿(しんがり)を務め、[[浅井長政|浅井]][[朝倉義景|朝倉]]軍の追撃から逃げて京に至る朽木越えの際に、猿飛仁助が率いる3000名の盗賊に襲われようとしていた」とある。既に藤吉郎の軍は戦う気力さえなかった。この時に[[蜂須賀小六]]の配下の日比六大夫(日比野六大夫)は猿飛と旧知の仲だった故に猿飛に盗賊をやめて木下藤吉郎(豊臣秀吉)配下に入り一緒に天下を取るように誘った。<ref>『清正実記』</ref>猿飛仁助はこの説得に納得して木下藤吉郎(豊臣秀吉)の家来となった。それ以来、猿飛一族は太閤秀吉の天下取りの陰の力となり天下を取った。猿飛佐助とはこの猿飛仁助の子孫であると考えられる。または猿飛佐助とは『清正実記』の猿飛仁助をモデルとして制作された架空の人物である可能性が高い。
 
それ以外にも、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事から、「上月佐助こそが猿飛佐助である」との実在説もある。これについては、大坂夏の陣後、[[徳川家康]]の命を受けたと思われる[[服部半蔵]]宗家が、本拠地の[[三重県]]柘植野を徹底的に殲滅・残党狩りをしており、「大坂夏の陣で当時の忍術(≒現在の諜報・特殊部隊)を駆使したことへの報復・恐怖の傍証」とも取れる。
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: 『[[猿飛佐助 (1980年のテレビ番組)|猿飛佐助]]』(主演:[[太川陽介]])[[1980年]]
: 『風神の門』(演:[[渡辺篤史]])1980年。
: 『[[猿飛三世]]』(声:[[千葉真一]])[[2012年]]
; 人形劇
: 『[[真田十勇士 (NHK人形劇)|真田十勇士]]』 [[1975年]]-[[1977年]]にNHK総合で放送。