「大野倫」の版間の差分

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しかし、栽の死後である[[2010年]]に受けた取材では、大野は大阪桐蔭高校との決勝戦敗退に関して、「悔しさは全く無く『やっと終わった』という安堵感が強かった」と述べていた。右肘の痛みに耐えながら決勝戦まで一人で投げ続けた事に関しては「これは僕と栽監督の信頼関係で成り立った話なので」と栽に対して批判する気持ちは持っておらず、さらに「栽監督がもし勝負師に徹していたのならば、(優勝するために)スパッと切って投げさせなかったと思う」とコメントしている。そして「栽監督が『ここまで来たのだから、勝ち負けに拘らず最後まで行こう』と(大野に)温情を入れてしまい、栽監督が『栽先生』になったから、全国制覇を逃してしまったのかも」と述懐していた<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=MksZYgVTEWU&feature=related 【懐かしの甲子園】 沖縄水産 大野倫]</ref>。
 
また、前述の1993年の二宮の取材には、2015[[2016]]2月に[[東京スポーツ]]の取材を受けた際に、「殺してやる」発言の件については「記事が独り歩きしてしまった。栽先生に矛先が向いてしまい、本当に申し訳なかった」「あれは記者の捏造。作り話です」「『当時こう思ったことはなかった?』と乗せられて、まるでそれが本心みたいに書かれてしまった。書いたやつこそ“いつか”って思ってます。まあ、冗談ですけど(笑い)」と否定した。また、「記事が出たとき、周囲からは散々怒られました。でも栽先生だけは『大野がこんなことを言うはずがない』と、はなから信じていなかった。救われましたね」とも振り返った<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/508720/{{Cite news | title = 元沖水エース「“監督殺してやる”の記事 あれは捏造です」] | newspaper = 東京スポーツ | date = 2016-02-22 | url = http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/508720/ }}</ref>。
[[東京スポーツ]]、2015年2月22日。</ref>。
 
栽が[[2007年]]に逝去した際には、告別式で感謝の言葉を伝えていた。大野の肘には今でも栽にマッサージをしてもらっていた際にできた傷跡が残っており、大野はこれが監督との一番の思い出であると語っていた。