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Eun9346 (会話 | 投稿記録)
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天平宝字8年([[764年]])には[[造寺司|造東大寺長官]]に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した[[藤原仲麻呂の乱]]では、[[従三位]]に昇叙されて、[[近衛兵#令外官|中衛大将]]として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌[[天平神護]]元年([[765年]])には勲二等を授けられた。翌天平神護2年([[766年]])称徳天皇(孝謙天皇の[[重祚]])と[[法王]]に就任した[[道鏡|弓削道鏡]]の下で[[中納言]]となり、同年[[藤原真楯]]の薨逝に伴い[[大納言]]に、次いで[[従二位]]・[[右大臣]]に昇進して、[[左大臣]]の[[藤原永手]]とともに政治を執った。これは地方[[豪族]]出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、[[近世]]以前では、吉備真備と[[菅原道真]]のみである。
 
神護景雲4年([[770年]])称徳天皇が崩じた際には、娘(の[[吉備由利|由利]]を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の[[光仁天皇]])の[[立太子]]を実現した。『[[水鏡]]』など後世の[[史書]]や[[物語]]では、後継の天皇候補として[[文室浄三]]および[[文室大市]]を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この[[皇嗣]]をめぐる話は『[[続日本紀]]』には認められず、この際の[[藤原百川]]の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い<ref>[[河内祥輔]]、[[瀧浪貞子]]など</ref>。
 
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年([[771年]])に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年([[775年]])10月2日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]83。最終[[官位]]は前右大臣正二位。