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|所属球団 = セガサミー硬式野球部
|役職 = コーチ
|背番号 = 57
|選手写真ファイル名 = HT-Tadatoki-Maeda.jpg
|写真のコメント = 阪神時代(2009年7月15日、阪神鳴尾浜球場)
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* [[PL学園中学校・高等学校|PL学園高等学校]]
* [[東洋大学硬式野球部|東洋大学]]
* [[大阪近鉄バファローズ]] (2000(2000 - 2004)2004)
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2005)(2005)
* [[阪神タイガース]] (2005(2005 - 2009)2009)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 =
* [[香川オリーブガイナーズ]] (2010(2010 - 2011)2011)
* [[福岡ソフトバンクホークス]] (2012(2012 - 2013)2013)
* [[セガサミー硬式野球部|セガサミー]]
}}
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== 来歴・人物 ==
[[PL学園中学校・等学|PL学園高校]]時代は[[投手]]として春2回、夏1回に出場し、ベスト8(同期に[[福留孝介]]がいる)が最高。その後[[東洋大学硬式野球部|東洋大学]]へ進学。東都大学1部2部リーグ通算90試合出場、打率.253、7本塁打、33打点。{{by|1999年}}の[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]3位で[[大阪近鉄バファローズ]]に入団。
 
入団1年目{{by|2000年}}は開幕スタメン「9番ショート」で出場するが、当時の二遊間はセカンドに[[水口栄二]]、開幕戦はセカンドだった[[武藤孝司]]がショートのレギュラーをつかんでおり、前半戦はスタメンはわずか7試合で、出場は主に守備固めが多かったが後半戦に入った後、武藤が肩を損傷(詳しくは武藤の項を参照)、セカンドやDHに入ったためスタメンの機会を与えられた。
 
2年目の{{by|2001年}}は開幕戦が絶望的となった武藤用員としわって2年連続で開幕スタメンに入る。その後ルーキーの[[阿部真宏]]との併用が続く。6月にドジャーズ経由で来日した[[ショーン・ギルバート]]が合流、ギルバートは当初セカンドが主だったが、7月に入りショートを守るようになったためスタメンを奪われる。ギルバート合流後はスタメン出場がわずか22試合であった。その後もショートとして阿部が頭角を現し、{{by|2002年}}は前半戦はわずか1試合のスタメン、後半戦は27試合スタメンだった。{{by|2003年}}も阿部のほかに[[星野おさむ]]もショートの争いに加わり、スタメンはそれまでで自己最少の11試合だった。
 
スタメンが少ない一方、堅実な守備から2000年49試合2001年48試合2002年27試合2003年44試合{{by|2004年}}12試合と、2004年までに405試合のうち180試合守備固めに出場。2004年オフに分配ドラフトを経て[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に移籍。
その後もショートとして阿部が頭角を現し、{{by|2002年}}は前半戦はわずか1試合のスタメン、後半戦は27試合スタメンだった。
 
{{by|2003年}}も阿部のほかに[[星野おさむ]]もショートの争いに加わり、スタメンはそれまでで自己最少の11試合だった。
 
スタメンが少ない一方、堅実な守備から2000年49試合、2001年48試合、2002年27試合、2003年44試合、{{by|2004年}}12試合と、2004年までに405試合のうち180試合守備固めに出場。2004年オフに分配ドラフトを経て[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に移籍。
 
{{By|2005年}}シーズン途中(交流戦期間中)に[[沖原佳典]]とのトレードで[[阪神タイガース]]へ移籍し、楽天から移籍退団した初めての選手となった。阪神に入団後は遊撃の[[鳥谷敬]]が不動であること、二塁にも[[平野恵一]]や[[藤本敦士]]がいることで出番は少なかったが、PL学園高・東洋大共通の先輩であり、守備をあまり得意としない[[今岡誠]]にアドバイスを送っていることが報じられていた。
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[[Category:香川オリーブガイナーズ]]
[[Category:福岡ソフトバンクホークス関連人物]]
[[Category:セガサミーグループ]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
[[Category:1977年生]]