「色部長実」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
5行目:
| 死没 = [[文禄]]元年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]([[1592年]][[10月15日]])
| 改名 = 長実→長真
| 別名 = 通称:惣七郎
| 諡号 =
| 戒名 = 高曹院殿重山善慶大居士
| 墓所 = [[山形県]][[米沢市]]窪田町窪田 千眼寺
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[修理職|修理大夫]]
| 幕府 =
| 主君 = [[上杉謙信]]、[[上杉景勝|景勝]]
| 藩 =
| 氏族 = [[色部氏]]
| 父母 = 父:[[色部勝長]]
| 兄弟 = [[色部顕長|顕長]]、'''長実'''
| 妻 = 正室:'''[[新発田
| 子 = '''[[色部光長|光長]]'''、女子
| 特記事項 =
}}
'''色部 長実'''(いろべ ながざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])、越後[[長尾氏]](上杉氏)の重臣・[[色部勝長]]の子として生まれる。父の死後は兄
天正6年([[1578年]])の謙信没後に起こった[[御館の乱]]では[[上杉景勝]]を支持して、[[上杉景虎]]方と戦った。その後は景勝の家臣として仕え、天正9年([[1581年]])に勃発した[[新発田重家]]の乱では、正室が重家の妹であった関係もあり重家対策を任された。天正16年([[1588年]])には景勝の上洛に随行し、同道した[[直江兼続]]・[[須田満親]]<ref>須田満親の賜姓は翌天正17年([[1589年]])とも。</ref>と共に[[豊臣秀吉]]から[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。
天正18年([[1590年]])の[[仙北一揆]]においては、秀吉の命令を受けて[[出羽国]][[平鹿郡]][[大森城 (出羽国)|大森城]]に在城し、[[大谷吉継]]と共にその鎮圧に功績を挙げた。天正20年([[1592年]])、秀吉の命令により[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]が始まると、景勝に従って[[肥前国
==人物・逸話==
*豊臣秀吉は長真を「北国路、まれに見る武将」と評したと言われている。
*[[小笠原貞慶]]の門弟で、軍法、作法、馬術の免許相伝の書を持ち、薬剤、目薬の製造法に至るまで、極めて広範囲の学芸を学んでいた。
*新発田重家の乱の後、当時の色部氏の菩提寺であった長松寺に義兄の重家を埋葬して懇ろな供養を行い<ref>『色部文書』天正16年(1588年)長松寺月牌書案に父・勝長や兄・顕長の戒名と共に重家の戒名も記載されている。</ref>、重家の実弟・[[新発田盛喜]]や重家の重臣であった[[池端鴨之助|池端(高橋)鴨之助]]、[[猿橋和泉守]]らを召し抱えている。<ref>『文禄三年定納員数目録』に色部同心平林在番として記載。</ref>なお盛喜はこのときから母方の姓の新保を名乗るようになり、盛喜の子孫(新保氏)は[[米沢藩]]に仕えた。
*[[仙北一揆]]の処理では、腹を切る覚悟で人質にとっていた武士
*仙北一揆の処理で出羽に赴いた際、道に迷ったところを雉子に助けられたことがあった。それ以来色部家中では雉子は大事にされるようになり、菩提寺の千眼寺には奉納された雉子の絵が現存し、色部氏が米沢で知行とした窪田地区では雉子を食べてはいけないと伝わる家もある。
46行目:
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:いろへ なかさね}}
[[Category:色部氏|なかさね]]
[[Category:戦国武将]]▼
[[Category:揚北衆]]
▲[[Category:戦国武将]]
[[category:越後国の人物]]
[[Category:1553年生]]
|