「デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
{{by|1952年}}にプロ入り。数球団を渡り歩いた後の{{by|1962年}}に[[ヒューストン・アストロズ|ヒューストン・コルト45's]]でメジャー初出場を果たした。その後、[[ピッツバーグ・パイレーツ]]を経て{{by|1967年}}に[[日本プロ野球|NPB]][[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]へ入団。シーズン開始前、同僚の[[豊田泰光]]とのバット談義でこれまで使っていた「重く長いバット」を「軽く短い日本製のバット」に変えてみたところオープン戦で結果を残すようになる<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09march/KFullNormal20090301234.html 【3月24日】1967年(昭42) 日本製バットで本領発揮 苦労人ロバーツ、来日初アーチ] - スポーツニッポン、2009年3月配信</ref>。NPBでの初本塁打は4月22日、[[後楽園球場]]での対[[読売ジャイアンツ]]1回戦で記録している。
 
当時の同僚であった[[ルー・ジャクソン]]とともに弱小だったアトムズ打線を支え、特に長打力はリーグトップクラス。[[セントラル・リーグ]]の本塁打王争いでは独擅場であった[[王貞治]]の牙城を度々脅かしたが、タイトル奪取は叶わなかった。特に{{by|1969年}}は8月半ばまで打撃3部門でトップに立ち[[三冠 (野球)|三冠王]]も期待されていたが、8月20日の巨人戦でベースカバーに入ろうとした投手と塁上で衝突し負傷、復帰に3週間を要し結果タイトルは一つも取れなかった。同年9月18日には外国人選手としてはNPB最速の通算100号本塁打を記録している<ref>[[ベースボール・マガジン社]]『東京ヤクルトスワローズ40年史』43ページ</ref>。