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'''任那'''('''みまな'''、'''にんな''' [[369年]] - [[562年]])は[[古代]]に存在した[[朝鮮半島]]の地域。[[三韓]]の中の[[弁辰]][[弁韓]]および[[馬韓]][[慕韓]]の一部の地に相当する。
 
== 任那と任那日本府 ==
[[記紀]]の記述をもとに、[[任那日本府]]は[[倭国]](日本の前身)の属領もしくは貢納国であり、任那地域に一定の経済利得権(おそらく製鉄の重要な産地があった)を持っており、事実上の属領で有ったと考えられていた。
 
しかし、1960年代ごろから[[大・北]]や[[朝鮮民主主義人民共和国]]で研究が進み、また日本でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、任那日本府の存在及び倭国の任那支配は否定視されるようになり、倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が任那地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。
 
== 中国史料における任那 ==
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== 朝鮮半島史料における任那 ==
朝鮮半島史料では任那の存在は殆ど忘れられ,認めらた。朝鮮半島史料では任那は加羅として、そして、加羅は百済と新羅に滅ぼさた連合王国として記憶されて
朝鮮半島史料では任那は加羅として,そして、加羅は百済と新羅に滅ぼされた連合王国として記憶されている。
* 『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』([[924年]]成立)に「任那」が見えるが、
* 『[[三国史記]]』([[1145年]]成立)の『本紀』には全くみえず、『伝』に僅かに1例が認められるのみである。
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* 『[[梁職貢図]]』([[525年]]頃成立)にはすでに「任那」の記載はない。
 
これを総合すると「任那」は[[512年]]から[[525年]]に滅亡したと考えられる。この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されていることも、これを傍証する。
この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されていることも、これを傍証する。
 
しかしながら、
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これらの記述から、任那四県割譲後に残った任那の実際の滅亡年はこの間では無いかと推察出来る。なお、一般的なテキストでは[[562年]]を滅亡年としている。
 
なお、通説によれば「任那四県」は現在の[[全羅南道]]に比定されている。[[全羅南道]]には5世紀後半に比定される前方後円墳が10基以上認められ倭と密接な関係があったことをうかがわせる「加羅」は現在の慶尚道に比定されており、したがって「任那」と「加羅」とは同一地域の別称とは言い難い可能性が高い。また、任那四県割譲後に残った加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国を総称して任那と呼んだと言う記述もあり、加羅は任那の一地方政権の名称としても使用されていた。
 
== 関連項目 ==