「愛の手紙」の版間の差分

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==概要==
今日、ワルツ「[[ウィーン市民]]」や「へラインシュパツィールト(いらっしゃいませ)」、「[[ウィーン娘]]」などの作品で知られ、19世紀後半の[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]政権末期下のウィーンで最後の宮廷舞踏会音楽監督を務めたホーホ・ウント・ドイチュマイスターの軍楽隊長および舞踏音楽作曲家としてめざましく活躍したツィーラーが、1885年の1月31日に、地元ウィーンの新聞『ウィーン・フレムデンブラット』上で公表した穏やかな表情・情緒を見せるフランス風ポルカであるが、残念ながら初演の期日は不明であり、詳しい作曲・完成までに至る経緯や動機を窺い知ることはできない。
 
ウィーン・フレムデンブラット紙は、1847年の1月1日に初めて出版され、当初は反政府紙であるとみなされた。1848年の動乱の出来事の後で、出版は11月14日に再開した。1849年から“その日のニュース”、編集者への手紙、内容を増した連載された小説が始まった。多くの浮き沈みの後、エルベミュール紙が1874年にその新聞を引き継ぎ、それは時々外務省の代弁機関として役立てられた。1918年に、その新聞は広範囲な産業に影響力を持ち、結局、急進的なドイツ人の国民的関心を支持したが、翌1919年に廃紙された。