「ユーゴスラビア」の版間の差分

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[[1918年]]に第一次世界大戦が終了し[[オーストリア・ハンガリー帝国]]が解体されると[[クロアチア]]、[[スロベニア]]も[[オーストリア・ハンガリー帝国]]の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)」が成立した。
 
憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立した[[ニコラ・パシッチ]]内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望む[[クロアチア農民党|クロアチア共和農民党]]などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「[[ヴィドヴダン憲法]]」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)の[[スチェパン・ラディチ|スティエパン・ラディッチ]]が暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、[[1929年]]10月3日には国王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル]]が憲法を停止して独裁制を布告し、'''ユーゴスラビア王国'''と国号を変更した。
 
[[ファイル:Kralj aleksandar1.jpg|thumb|right|200px|国王アレクサンダル1世]]