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=== 対フランス革命 ===
1789年7月14日の[[バスティーユ牢獄]]の襲撃がロンドンの新聞紙上に報じられた7月18日、バークは既に60歳の老齢であった。バークは当初から[[フランス革命]]に対し否定的であり、そのことは彼によるフランス革命への記録上最初の言及である1789年8月9日の手紙からわかる。その手紙には
バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、1789年10月5日から6日にかけて、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]をパリに引き戻すために、市民が暴徒化して[[ヴェルサイユ]]へ進撃した出来事([[ヴェルサイユ行進]])である。同月10日、バークは息子リチャード宛ての手紙の中で
同年11月、バークは革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。バークは「私の言う危機的な言い回しは、すべて単なる疑問の表現として見なされるべきである。」と返答した。が、彼は付け足した。「貴方がたは君主を倒したかもしれない。でも自由は奪回できていない。」<ref>Clark, p. 62.</ref>と。さらにその後、バークがしたためた長文の手紙と、1790年1月に第2の返信をしたためている時読んだ、[[ユニテリアン]]牧師リチャード・プライスの『祖国愛について』への反論が合わさり、同年11月の『フランス革命の省察』の出版に至る。『フランス革命の省察』の内容はフランス革命への批判、そして革命が以後どのような経過を辿るかの予見である。
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バークがはじめて公的な革命非難を行ったのは、1790年2月9日、軍隊の予算見積もりに関する国会の議論においてである。首相の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]や[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]がフランス革命を賞賛したことによって引き起こされた。
さらに1790年5月6日、英国[[庶民院 (イギリス)|下院]]でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。
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