「細川政賢」の版間の差分

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永正8年(1511年)、澄元派の先陣の大将として[[細川氏#和泉上守護家|和泉上守護家]]の[[細川元常]]・[[山中為俊]](遠江守)らを率い、京都を目指して[[和泉国|和泉]]に上陸した。これに細川尚春や[[赤松義村]]が援軍を出し、[[畠山義英]]は[[遊佐順盛|遊佐順盛(印叟)]]([[遊佐長教|長教]]の父)を発した。はじめ摂津・[[河内国|河内]]などで優位にことを進めたが、尚春の淡路衆が7月に摂津[[神戸港#中世|兵庫口]]で敗退し、赤松勢は摂津[[伊丹城]]攻めにかかりきりとなった。そして、8月に澄元擁立の前将軍[[足利義澄]]が急死したことも影響してか、8月末に[[船岡山合戦]]で大敗した。元常は逃れたが、政賢をはじめとして遊佐順盛・山中為俊・[[奉行衆]]の[[松田頼亮]]らが戦死した。
 
なお、高国側陣営では典厩家は尹賢、[[細川藤賢|藤賢]]と受け継がれたが、政賢死後に実子の澄賢が澄元の後継者の[[細川晴元]]を補佐する人物として登場しており<ref>『阿波国徴古雑抄』細川三好両家消息:西原正洋『永正の錯乱以降における細川氏の本庶関係』(奈良大学大学院研究年報) http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php%3Ffile_id=4004</ref>、澄賢の子の晴賢も[[江口の戦い]]で晴元の支援する[[三好政長]]側について戦っている。
 
== 参考文献 ==