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'''レオーン6世“ソフォス”'''または'''“フィロソフォス”'''(<small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|'''Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός''', Leōn VI ho Sophos}} または {{lang|el|'''ὁ Φιλόσοφος''', ho Philosophos}}, [[866年]][[9月1日]]あるいは[[9月19日]] - [[912年]][[5月11日]])は、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の第2代[[皇帝]](在位:[[886年]] - 912年)。中世ギリシア語読みでは「レオン」となる。“ソフォス”は「賢者」を、“フィロソフォス”は「哲学者」を意味するあだ名である。
 
マケドニア王朝の開祖[[バシレイオス1世]]と、彼の二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、エウドキア・インゲリナは[[867年]]に[[ミカエル3世]]がバシレイオス1世に暗殺されるまでミカエル3世の愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと、867年(ミカエル3世の暗殺直後)に生まれたステファノスはミカエル3世の息子である可能性を否定できない。こうした噂は既にレオーンの出生直後から広く流布していたようである。なお兄のコンスタンティノスはバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝の血統は[[1056年]]まで存続したことになる。
 
[[870年]]には共同皇帝として戴冠された。[[872年]]頃には一時幽閉されていた[[フォティオス]]が召喚され、レオーンらバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、[[879年]]に、後継者であった兄コンスタンティノスが没したためレオーンがバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、[[882年]]に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後に母が没するとバシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして[[883年]]には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に[[886年]]7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。