「アルカンジェロ・コレッリ」の版間の差分

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コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っているが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようである。コレッリ最初の大きな成功は19歳のときに[[パリ]]で得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得た。22歳の歳、1675年に、彼はローマに出て同地に[[サン・ルイ・デ・フランセ聖堂]]でバイオリン奏者の地位についた。1679年、26歳の時に、彼はローマの[[カプラニカ劇場]]で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮した。フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、[[ベルナルド・パスクィーニ |パスクィーニ]]、ガエターニの3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、[[チェンバロ]]、[[テオルボ]]にかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記した。
 
その後、コレッリはパリから[[ドイツ]]へ移った。[[1681年]]には彼は[[バイエルン王国|バイエルン]][[選帝侯]]のもとで勤めていた。この前後[[1680年]]から[[1685年]]の間、彼は多くの時間を友人の[[クリスティアーノ・ファリネッリ]]宅で過ごしていた。この時期が最も脂がのり、作品番号を記した代表作を世に放つだけの実力があったようである。1685年にはコレッリは[[ローマ]]におり、そこで[[スウェーデン]]女王[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]のための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ[[枢機卿]](後の[[ローマ教皇]][[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]])の寵臣であった。[[1689年]]から[[1690年]]にかけては[[モデナ]]に滞在し、モデナ公はコレッリに対して寛大であった。[[1708年]]に彼はローマに戻り、オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らした。同年には、国王の招きで[[ナポリ]]を訪れている。<ref>1708年にコレッリ死亡の誤報が流れると、デュッセルドルフに宮廷を持つ[[選帝]][[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]は丁重な弔辞を送った。コレッリが病のために公衆の面前に現れなくなるのは2年後の1710年である。</ref>
 
コレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみであった。彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲ったが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還した。<ref>特に重要なバイオリンは19世紀はじめに行方不明になっている。</ref>コレッリはローマの[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]に埋葬された。