「横田久則」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
38行目:
松江小学校時代から、投手として父親の指導のもと活躍していた。その頃はチームメートの方が超小学級として騒がれていたが、中学以降からその才能をのばしていった。
 
[[和歌山県立那賀高等学校|那賀高]]から、[[1985年]]の[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1985年度プロ野球ドラフト会議]]6位でにて[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から6巡目指名を受け入団。
 
[[1986年]]、アメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学した。入団2年目の[[1987年]]に5勝を挙げ大いに期待されたが、その後は肩の故障などで苦しんだ。また故障がちであったため、「ブルペンエース」というニックネームがついてしまった。[[清原和博]]は現役時代の横田について「あいつの苦労に比べたら俺の苦労なんて小さいもの」と語っていた。[[1995年]]には先発ローテーション入りして6勝を挙げ、[[1998年]]には同じく6勝ながら11年ぶりの完封勝利を記録。[[1998年横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]と[[日本選手権シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第5戦の先発投手を務めた(結果は敗戦投手)。
 
[[2001年]]は[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[2002年]]は[[阪神タイガース]]でプレーした。阪神を戦力外となり、[[台湾]]・[[中華職業棒球大聯盟]]の[[兄弟エレファンツ]]に移籍。[[2003年]]は16勝をあげ、勝投王(最多勝利)の[[タイトル]]を獲得した。[[2004年]]に現役引退し、兄弟のコーチを2年間務めた。