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'''メンテシェ侯国'''(‐こうこく、'''Menteşe'''、[[1260年]] - [[1424年]])は南西[[アナトリア]]、[[ミラス]]に都し、そこに近い[[ベチン]]という城から統治していた、[[オグズ]]諸部族により[[ルーム・セルジューク朝]]の衰退期に形成された辺境の君侯国([[ベイリク]])の一つ。国名は創始者の[[メンテシェ・ベイ]]に因む。国土の中心は今日の[[トルコ]]の[[ムーラ県]]にあたる。
主な都市はベチン、ミラス、[[バラト]]、[[フィニケ]]、[[カシュ]]、マール(現[[フェトヒイェ]])、[[ムーラ]]、[[チャメリ]]、[[アチュパヤム]]、[[タヴァス]]、[[ボズドアン]]、[[チネ]]。[[アイドゥン]](旧称トラッレス)もこの国に支配されていたことがあり、メンテシェ支配下ではギュゼルヒサル(Güzelhisar)と呼ばれていた。この都市は後に[[アイドゥン侯国]]領となり、創始者の名を取ってアイドゥンと改名された。メンテシェは1300年から1314年の間[[ロ
最初に[[オスマン帝国]]の支配下に入ったのは[[1390年]]、[[バヤズィト1世]]の治世である。[[1402年]]、[[ティムール朝]]の侵攻で一時的にメンテシェは復活したものの、[[1414年]]には再びオスマンの支配下となり、[[1424年]]には完全にオスマン帝国の一部となった。
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