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永禄9年([[1566年]])と永禄11年([[1568年]])、[[鹿角郡]]に侵入した[[安東愛季]]軍を撃退し武名を挙げる。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])、晴政に実子・[[南部晴継]]が誕生すると{{要出典範囲|date=2016年3月|次第に晴政から疎まれるようになる。}}
 
元亀2年([[1571年]])5月([[天正]]9年([[1581年]])説もある)、南部一族の[[津軽為信|大浦為信]]に[[石川城]]を攻められて実父・石川高信が自害する{{要出典範囲|date=2016年3月|(生き延びたとする説もある)}}。これは石川家を弱体化させておきたい晴政が、{{要出典範囲|date=2016年3月|石川家の津軽地方をかすめ取るよう大浦為信を密に唆したとの説もある}}。なお南部氏側資料では、石川高信は天正9年(1581年)に病死し大浦為信に攻められていないが、{{要出典範囲|date=2016年3月|南部氏側の作意を示す証拠が存在する。}}
 
[[天正]]4年([[1576年]])、正室(晴政の長女)が早世すると、本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し[[田子城]]に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため[[北信愛]]の[[剣吉城]]や[[南部氏#根城南部氏(遠野南部氏)|根城南部氏]]当主・[[八戸政栄]]の[[根城]]などに身を隠す。晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび一族内の有力勢力・[[九戸氏]]の連衡と、信直を盟主とする[[南長義]]、北信愛の連合の間で対立していく。
 
=== 南部宗家家督相続 ===
天正10年([[1582年]])、南部晴政が死んで晴継が第25代当主を継承するが、同年晴継は急死する。{{要出典範囲|date=2016年3月|これには信直の暗殺説も囁かれている。}}更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、{{要出典範囲|date=2016年3月|晴政親子が攻め滅ぼされたという説}}も浮上しているが、真偽のほどは不明である。なお南部氏側資料では、晴政没後に騒動は発生しておらず、{{要出典範囲|date=2016年3月|晴継も疱瘡で死んだことになっている。}}
 
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・[[九戸政実]]の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ[[九戸実親]]を推す意見もあったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった<ref name="戦国人名事典590"/>。このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。