「ビートルズ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Rice-addict (会話 | 投稿記録) m 他にもに→以外に対しても |
|||
181行目:
== 演奏旅行中止以降の来歴 ==
=== サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで ===
1966年9月、ジョンが「ジョン・レノン僕の戦争([[:en:How I Won the War|How I Won the War]])」の撮影のためスペイン入り。休憩時間を使って「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」を書いている<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.231</ref>。ほぼ同時期にジョージが[[インド]]音楽の研究のためインドに行き、[[ラヴィ・シャンカル|ラビ・シャンカル]]と対面している<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233</ref>。11月、ジョン・ダンバー<ref group="注釈">[[マリアンヌ・フェイスフル]]の前夫。</ref>の招待<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.235</ref>でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、[[オノ・ヨーコ]]と出会う。同月、公演旅行中止後初めてアビーロード・スタジオに集合し「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」、「[[ホエン・アイム・シックスティー・フォー]]」、「[[ペニー・レイン]]」等がレコーディングされた。これらの曲は当初次回作アルバムに収録する予定だったが<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.237</ref>、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため<ref name="compleat"/>、この内の2曲が先行してシングル発売される事になった。1967年2月、シングル「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」と「[[ペニー・レイン]]」が両A面としてリリースされる。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスで「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」がリリースされる。このアルバムは当時のポピュラー音楽界
1968年1月、ジョージがインドの[[ボンベイ]]で「[[不思議の壁 (アルバム)|不思議の壁]]」(同名映画[[:en:Wonderwall (film)|Wonderwall]]のサウンドトラック)を録音(発売は11月)。その後メンバー全員で[[リシケーシュ]]のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールと[[デレク・テイラー]]([[:en:Derek Taylor|Derek Taylor]])<ref group="注釈">広報担当。1964年に一旦離れたが、1968年の[[アップル・コア]]設立に関連して再びビートルズとの仕事に携わる。元々は記者で、ライターとして『サイケデリック・シンドローム―それはビートルズから始まった』も執筆している。また『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]]』の編集に協力したと特に編集後記で名前が挙げられている。1997年に死去。</ref>主導でアップル・コアの設立準備を行う<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.287</ref>。5月、ニューヨークでジョンとポールがアップル・コア設立の記者会見を催行する。7月<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.292</ref>、アニメーション映画[[イエロー・サブマリン (映画)|イエロー・サブマリン]]を公開。8月、ジョンとシンシアが険悪である時に夫妻の息子である[[ジュリアン・レノン|ジュリアン]]にポールが伝えたいと思ったメッセージが元になった<!--ザ・ビートルズ・アンソロジーで本人が言明しているので「と言われる」という記述は適切ではありません。--><ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.297</ref>「[[ヘイ・ジュード]]」発売。11月、2枚組アルバム「[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ザ・ビートルズ(通称ホワイトアルバム)]]」発売<ref group="注釈">本作では[[クリス・トーマス]]([[:en:Chris Thomas (record producer)|Chris Thomas]])がアシスタント・プロデューサーとして参加している。</ref>。
|