「ラムセス3世」の版間の差分

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| golden = ウセレンプト・ミー・アトゥム<br> ''{{Unicode|Wsr-rnp.wt-mj-Jtm}}'' <br> ''黄金の[[ハヤブサ]], [[アトゥム]]のように毎年を豊潤にする''
| golden_hiero = <hiero>F12-M4*M4*M4-W19-A45</hiero>
| Reign=前1186年<ref name=ls160321/>または前1184年頃<ref name=louvre/> - 前1156年、前1155年または前1153年頃
| Predecessor={{仮リンク|セトナクト|en|Setnakhte}}
| Successor={{仮リンク|ラムセス4世|en|Ramesses IV}}
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| Children=[[#家族]]を参照
| Born= 前1221年頃<ref name=SN/>、前1220年頃または前1218年頃
| Died= 前1156年<ref name=SN/>、前1155年頃<ref name=ls160321/>または前1153年頃<ref name=louvre/>
| Burial= {{仮リンク|KV11|en|KV11}}
| Monuments={{仮リンク|メディネト・ハブ|en|Medinet Habu (temple)}} |
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ラムセスの在位8年目にペレセト (Peleset) 、チェッケル ([[:en:Tjeker|Tjeker]]) 、シェケレシュ ([[:fr:Shekelesh|Shekelesh]]) 、デニエン ([[:en:Denyen|Denyen]]) 、ウェシェシュ (Weshesh) などの各民族からなる「[[海の民]]」{{refn|group=Note|各民族について「ペレセト」 (パラサティ) は[[ペリシテ]]、「チェッケル」は[[トロイア]]、「シェケレシュ」は[[シチリア]]、「デニエン」はギリシャ系のダナオに比定されている。ウェシェシュについては不明である。その他の「海の民」の民族として「エクウェシュ」 (Eqwesh, [[アカイア]]に比定)、「ルッカ」(Lukka, [[リュキア]]に比定)、「シェルデン」([[:en:Sherden|Sherden]], [[サルディニア]]に比定)、「テレシュ」([[:en:Tyrrhenians|Teresh]], [[エトルリア]]または[[テュレニア]]に比定)などがある<ref name=Wilkinson346/><ref>[[#小川|小川]] p.159</ref>。}}が[[レヴァント]]地方より陸上および海上からエジプト領内へ侵入した<ref name=Wilkinson346>[[#ウィルキンソン|ウィルキンソン]] p.346</ref><ref name=onuki518>[[#大貫|大貫]] p.518</ref>。
 
まず、エジプト軍は陸路から北東国境に侵入した「海の民」の軍を破った({{仮リンク|ジャヒの戦い|en|Battle of Djahy}})<ref name=Wilkinson346/>。次いで海より侵入した「海の民」の軍に対してエジプトの海軍は貧弱であったとの評判にもかかわらず頑強に戦った。ラムセスが海戦で取った作戦は弓隊を海岸沿いに配置して、「海の民」が[[ナイル川]]の河岸から上陸しようとした時に「海の民」の軍船目掛けて切れ目無く[[矢]]を一斉に射撃し続けるというものであった<ref>[[#クレイトン|クレイトン]] p.210</ref>。また、[[ガレー船]]や[[フラットボート|平底船]]などを並べて堅牢な壁のような防御陣を構築し、それらの船の船首から船尾に至るまでエジプト軍の兵士を多数乗船させた<ref name=carson67>[[#カーソン|カーソン]] p.67</ref><ref>[[#歴史学研究会|歴史学研究会]] p.139</ref>。
 
エジプトの軍船は「海の民」の軍船をグラップリングフック ([[鉤縄]]) で引き寄せて、両軍の兵士による[[白兵戦]]の末にエジプト軍が勝利した<ref name="Clayton211">[[#クレイトン|クレイトン]] p.211</ref>。「海の民」が矢による攻撃に対して備えが出来ていなかったことおよび[[帆船]]のみであった「海の民」に対してエジプトは[[櫂]]を備えており自由に船を操れたことがエジプト軍が勝利した理由として挙げられる<ref name=carson67/>。
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2011年、ドイツの犯罪化学のチームがラムセスのミイラを調査し、首の周りに巻かれていた包帯の部分の[[コンピュータ断層撮影]] (CT) を実施した。それによると喉首を横切って深い刃物傷があり、その傷は[[椎骨]]にまで達する深さであった<ref>J. H. Breasted, ''Ancient Records of Egypt'', pp.454-456</ref>。
 
2012年12月、エジプトの考古学者[[ザヒ・ハワス]]を中心とするチームがラムセスのミイラをCTスキャンしたところ、ラムセスは生存中に[[咽喉|元]]を切られ([[気管]]と主幹動脈が裂けていた)、傷は左右7[[センチメートル]]で[[脊椎]]に達する致命傷であり、恐らく即死であったことがわかった<ref name=CNN/><ref name=AFP>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/2917282|title=古代エジプトの王殺し、科学技術で3000年の謎解ける|publisher=[[フランス通信社]] (AFP) |date=2012-12-19|accessdate=2015-4-3}}</ref>。また、解析した画像から喉の傷の中に「[[ホルスの目]]」のお守りが埋め込まれているのを発見し、これにより[[エンバーミング]]をした段階で既に傷が存在していたことが裏付けられた<ref name=SN>{{cite news|url=http://jp.sciencenewsline.com/articles/2012121816540000.html|title=ラムセス3世は暗殺された|publisher=ScienceNewslineline|date=2012-12-18|accessdate=2015-4-3}}</ref><ref name=CNN/><ref name=reuters>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE8BI02Y20121219|title=ラムセス3世は首切られ暗殺か、ミイラに傷見つかる|publisher=[[トムソン・ロイター]]|date=2012-12-19|accessdate=2015-4-3}}</ref>。
 
2016年3月、ハワスと[[カイロ大学]]の医師サハル・サリーム(Sahar Saleem)らによってラムセスのミイラに再度CTが行われ、喉元の刺傷以外に足の親指を切断された痕が発見された。これらの状況より、ラムセス襲撃は2人以上で実行され、1人はラムセスの正面から斧のような武器で攻撃し(この時にラムセスの足の親指が切断)、もう1人が背後から[[短剣]]などの武器によりラムセスの喉元を貫いたと考えられる<ref name=ls160321>{{cite news|url=http://www.livescience.com/54100-pharaoh-ramesses-iii-killed-by-multiple-assailants-egyptologists-say.html|title=Pharaoh Ramesses III Killed by Multiple Assailants, Radiologist Says|publisher={{仮リンク|LiveScience|en|LiveScience}}|date=2016-3-21|accessdate=2016-4-2}}</ref>。
 
[[Image:Ramses III mummy head.png|right|200px|thumb|ラムセスの[[ミイラ]] (上半身部分) 。首に巻かれている包帯の下に致命的と見られる刃物傷が発見された。]]
なお、暗殺されたことが確定するまでは、「[[クサリヘビ科|くさりへび]]に咬まれた傷が、ラムセスの死を引き起こした」という説もあった<ref name=CNN/>。これについて、ラムセスのミイラに来世で蛇から身を守るためのお守りが付けられていたことや、暗殺者の一味であった食事と飲み物を給仕する召使は「蛇と蛇の王」と呼ばれていたことが根拠として挙げられていた。
 
こうしてラムセスは暗殺された。享年は約65歳とされる<ref name=SN/>。ラムセスの暗殺には成功したものの、トリノの法のパピルス ([[:en:Judicial Papyrus of Turin|en]]) によるとその年の内に事件に関与した者は全員が処刑された<ref name=ls160321/><ref name="ReferenceA"/><ref>J. H. Breasted, ''Ancient Records of Egypt'', p.418</ref>。公判のことを記した別の文書によると、総数で38人に死刑判決が下された<ref>Joyce Tyldesley, Chronicle of the Queens of Egypt, Thames & Hudson October 2006, p.170</ref>。
 
但し、有罪となった内の何人かは[[賜死|自殺]] (恐らくは毒) する選択権を与えられ<ref>James H. Breasted, ''Ancient Records of Egypt'', Part Four, &sect;&sect;446-450</ref>、ペンタウアーもその一人であった<ref>[[#ドドソン|ドドソン]] p.193</ref>。ペンタウアーのミイラである可能性が高い「叫ぶミイラ」と称されるミイラ<ref name=AFP/>の胃の中からは毒物が検出され、遺体から臓器や脳を取り出さずにミイラ化されていた。さらに儀式において不浄とされた[[ヤギ]]の皮を被せた上で両手両足が強く縛られていた跡が発見された。ハワスはこのミイラの処理方法について異常なものであったとコメントしている<ref name=SN/><ref name=CNN/><ref name=MO>{{cite news|url=http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1083945/Mystery-screaming-mummy.html|title=Mystery of the screaming mummy|publisher=[[デイリー・メール|mail Online]]|date=2008-11-10|accessdate=2015-3-27}}</ref>。
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**{{仮リンク|ドゥアテントペト|en|Duatentopet}}
 
== ヘロドランプシニトス ==
[[古代ギリシア]]の[[ヘロドトス]]が記した「[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]」の第2巻(エウタルペ)に登場する「'''ランプシニトス''' (Rhampsinitus) 」はラムセスに当たると考えられている<ref>[[#松平|松平]] p.491</ref><ref>[[#ラカリエール|ラカリエール]] p.124</ref>。ヘロドトスはその中でランプシニトスが歴代のファラオの中で最も多くの量の[[銀]]を所有していたと紹介し、その保管していた銀を窃取した[[盗賊]]との知恵比べに関する逸話を記載している<ref>[[#松平|松平]] p.277</ref><ref>[[ヘロドトス]]「歴史」 [[wikisource:History of Herodotus/Book 2|巻2]]</ref>。
 
== 年代に関する論争 ==